「絶対正しい」は存在しない。モヤモヤから最適解を見つけるコツ

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確かあれは2012年の5月、起業家の与沢翼さんに取材させていただきました。それは韓国の百潭寺(ペクダムサ)で行われた平和活動家で禅僧のティクナットハン禅師(タイ)のマインドフルネス合宿を終えて帰国した翌日のこと。「インターネットで絶対稼ぐ!」という編集担当したアンアンのモノクロ特集で、アフェリエイトで1か月に4000万円稼いだ主婦にその手法を伝授された読者モデルの実践ページなんかもあったりして。攻め攻めな8頁でした。そんな私は現在ここでひっそりと日誌を綴っています。

 

さてタイには合宿中に「お金は幸せの本質ではない。もっと深く物事の関係性、成り立ちを見つめなさい」と言われ、己の世俗の垢を流すがごとく号泣し続けました。その翌日に「絶対稼ぐ!」というページの撮影や取材をディレクションするなんて、仕事中に混乱して吐いてしまうんではと不安だったのですが。「面白そうだから」と言って取材に同行してきた男性キャップ(そもそもは彼の企画です)は「ねぇ、マネージャーさん、パンツ透けてない?」と完全に浮き足立って耳打ちしてくるし。六本木の億ションなんて入るのが初めてだったので、エレベーターの犬のボタンを押したら何が起こるのかな?!と、そのボタンが点灯して一同ドキドキしていたら、ジャーマンシェパードを連れたシュッとした人が乗ってきたり。そんなこんなで、でもその心配は、完全に杞憂に終わったんです。自分でも驚きました。

 

というのも、こんなことを書いたら四方八方から苦情が来るかもしれませんが(ひっそりやっている日誌なので、大丈夫でしょう)、私のなかで、タイと与沢さんに共通するものを感じたからです。「何考えてるの?!同じなわけないじゃない!」と当時の私は葛藤しました。

 

それは、ある目的に到達するために己を手放す姿勢、滅私です。贅に包まれた六本木の億ションでの取材が深まるなか、彼は別にお金を使って贅沢したいわけじゃないんだなと感じました。彼が履くグッチのローファーも、残高を撮影するために用意してもらった通帳も、ずらり並ぶ高級時計も、向こう持ちで準備してもらった久兵衛の寿司職人付きケータリングも、全部目標への手段なんだなと。相手が見たいように自分をカメレオンのようにアレンジ出来るストレッチ力。一方で、ゴールには関係の無い「こう見られたい」というエゴや期待値が人に比べて圧倒的に低いんです。

 

「こんな取材が続くと当然出てくる反発意見に対して、どうメンタルを保っていますか?」と伺うと、「アンチも有難いと思っています。逆に何も言われなくなったときが一番怖いです。注目していただけるのは、それが良い意見にせよ、悪い意見にせよ、なんらかの価値を私にみていただけているということですから、有難いです」と言われて、視点が高いと思いました。そこに「深く本質を見なさい」と言うタイの教えとの共通性を見たのです。

 

逆に同じスピリチュアル実践をしたり、精神世界や仏の教えに生きるという人に対して、「?」と思うこともあります。利他性について研究する人たちが、神経症なまでに自分の発言力や権威を守ろうとしたり、持続可能性に向かって活動するスピリチュアルリーダーが弱きものを蔑ろにしていたり…(全て私の視点からですが)。

 

会社を辞めてこの5年、カテゴリーの外れに位置しながらそういう体験をし続けて、自分の人を見抜く力の無さや、表面的なものに憧れて左右されてしまう無知さに反省したり傷ついたりしてきました。そこで、ある人や共同体に興味を持ったら、なるべくそこで暮らすなりして、その人が自分の近しい人(家族、もしくはコミュニティメンバー)や自分よりも立場が弱い人(たまたま入った店の店員さんに対して等も含む)に対してどう振る舞うのかを見て、感じてみることにしました。その結果、今私が学ぶ人たちというのは、非常にバラエティに富んでいます。

 

そしてつい最近に起こった出来事も含めて改めて思ったのは、最終的に何が正しい、間違っているという論点で物事を見ると絶対に正解が出ないということ。

私が「自分が正しい」という視点に立つとき、相手も「自分が正しい」という視点で応戦してくるのです。そこにはストレッチ力が無く、完全に0か100かと衝突します。

 

例えば私には「約束を守るのが普通」というものさしがあります。納品後に契約書を反故にするような人が目の前に現れると「そんなことするなんて信じられない」「ひどいな」となり、最終的にはそんなことをされる自分は「蔑ろにされている」「自分には価値がないからだ」という負の自己批判に発展することに気がつきました。これは最終的に自分の気分が悪くなっているので非常に無意味で、精神衛生上にも悪いことです。

 

突き詰めていえば、相手が自分の思い通り(=約束や交わした契約は守って欲しい)に動いて欲しいと思っていて、この世界に違う考え方や価値観を持つ人が存在することを認めておらず、そのせいで苦しくなっているわけです。つまり嫌な気分になっているのは、相手のせいではないんですね。気分が悪くなるパターンの種を蒔き、水を与え、さらにはそれを刈り取ったのは自分です。

 

正解は人の数だけあるんです。私が出来るのは、相手を変えることではなく、付き合い方や自分を変えることだけ。

 

ここで一生懸命私を助けようとする友人から学んだのは、起きることを許し、波に乗りながら思うように展開させて、最終的には望む形に着地させるという酔拳のような鮮やかな技。彼女は禅修行なんて興味がない人だけど、彼女の方がよっぽどスピリチュアル実践者で、その生き方はエネルギーに抵抗せず、信頼して起きるに任せる、を実践していると感心しました。私はとにかく友だちに恵まれていて、学ぶばかり。すごく幸運だと思います。

 

結局ここで何が言いたかったかというと、「正しそう」と思うものは少し疑ってみることも大切だということ。そして「間違っている」と思うものには自分の心理的ブロックや学びが隠されている可能性があるということ。そして「正しい」「間違っている」は人の数だけ、その脳内変換の数だけ存在するので、絶対的な正しさを求めて論じても解決にならず、あるのはただ、個人個人がそれを「感じる」ことだけ。

 

そこで、自分が感じてみて「?」と思うか、「YES!」と思うか。他の人は同じように思わないかもしれないけど。それに従うということに尽きるんだと思います。正しいか間違っているかということではなくて、それはどっちかというと「心地いいか」「心地悪いか」ということです。

 

今まで私は自立というのは、経済的な自立や社会的な自立のことだと思っていましたが、もっと深い意味でのそれは、精神的な自立だと思います。それは「他人の考えは自分と違って当たり前」と心の底から理解して、自分の思いを大事にする。それが自立であり、人と自分への許し、歩んできた過去の許しでもあるかなと試行錯誤しながら、感じています。

政治哲学者のアイザイア・バーリンは言います。

人類にとって唯一無二の正しい理想であると言って一つの最重要な理想を追求すれば、必ずや強制に至る。そして次は、破壊、流血に至る(1)。

人は自分が何者かという認識を守るために、自分が正しいという主張にしがみつきます。それは私も同じ。でも、本質的にはそんなものに頼らなくても、私は私で在れるのです。傷つくのを恐れるばかりに0か100かで物事を見ないというのは本当に難しくて、でもとても大切な人生ドリルだと思いながら、今目の前にあるそれに不器用に取り組んでいます。

 

  1. Isaiah Berlin, “A Message to the 21st Century,” New York Review of Books, October 21, 2014 in 『敵とのコラボレーション』(アダム・カヘン著、小田理一郎監訳、東出顕子訳/英治出版)