愛とはなにかと考えるとき、無意識だったけど、ずっと“どうしたら愛されるか”ということをセットで考えてきたように思います。それこそがわたしが今ひとりである理由でしょう。ズドンっ。認めるのが辛いところですが、わたしが今まで愛だと思っていた男女関係はすべて愛ではなく、お互いに望みを叶えたときだけ愛し合うという必要性や執着だったと思います。
女性誌の編集者だったときは、愛されるためのメイクに始まり、相手の本音を見抜くLINE解読術や排卵日に着る勝負服まで(!)、いろんな人に取材して一生懸命ページにしてきました。残念ながら、実践できるほどの賢さはありませんでしたが…。大学に行き直して心理学を学んだときは、接触回数が多いほうが好意を持たれるとか、恋愛のドキドキと吊り橋を渡るときのハラハラは生理現象が似ているのでどちらの感情なのか勘違いされやすいなんていう論文を授業で読んだりも。
すべて勉強になったけど、どんな情報を得てみても、自分のことがわからないまま相手を解ろうとしても、最後の最後で、相手を愛しぬくという責任が取れませんでした。
ところで、わたしがアメリカにいた頃、禅センターで出会った友だちに「ザ・ワーク」という思い込み外しのメソッドを提唱するバイロン・ケイティという人物をオススメされたことがあります。彼女はそのワークショップで「パートナーに去られる」苦しみを訴えた参加者に対して、「わたしだったら、彼の荷造りを手伝うわ」と断言したそうです。相手がどんな決断をしたとしても、その人の幸せを願う、つまり、愛し抜くというのです。
いっぽう、思考レベルで誰かを愛するとき、与えることができたとしても、そこには恐れや期待があって、「(自分が思うように)愛される」見返りを求めるもの。それは愛でなく、必要性です。思わず親が燃えさかる炎に身を投げ出して子どもを守ろうとするような、無条件の愛ではありません。
本当の自分を受け容れることがないまま、関係性においていいところだけ見せようと、そうでない一面はおそるおそる小出しにする。すると相手から、「それは、キミらしくない」と拒否されたりします。そこで、嫌われてはならないと抑圧されたパーソナリティーは出どころを無くし、全人的に振る舞えない自分に対して自己信頼がなくなっていきます。すると、次第に愛する自信を失っていき、愛することよりも、愛されることが優先されるようになっていきます。その結果、愛されることを優先する、自分に自信がないときのわたしを好きな相手に好かれるようになります。
自分にOKを出せないと、心から愛を深められる相手を選ぶことも、愛し抜くことも難しい。なぜなら、愛する決断をする自分に自信が持てないから。この1年間家主のヨーコちゃんの愛し方をみてきたことで、それがようやくわかりました。
ヨーコちゃんは人を愛するときに、まず自分を差し出します。そして相手からは、ほとんどなにも期待していません。相手からどう愛されるのか、二人がどんな関係性なのか。そういう願望よりも、愛する機会を与えられたことを純粋に喜び、感謝します。それは男女関係に限らず、わたしに対してもそう。誠実さと思いやりがあります。愛とは愛されることではなく、愛すること、大切に守って時間をかけて育んでいくものなんだなと、ヨーコちゃんから学びました。そして彼女のように自分から愛した人は、その副次効果として結果、愛されることになります。そしてどちらが愛しているのか、どちらが愛されているのかがわからない、愛のダンスが始まります。
「すごいなぁ」と感心すると、ヨーコちゃんは「お世話したい相手じゃないとしないよ」ときっぱり。彼女は愛することに責任持ち、自分でそれを選択しているのです。
わたしは今、ひとりきりの時間を大切にしています。鳴らない電話、着信しないLINE、ひとりだと受け容れたときに初めて、ひとりきりではないと気づくことができました。本当に必要な、貴重な時間だと感謝しています。
ヨーコちゃん、このマキワリの家にいるご先祖さま、自分を超えた存在、紅葉や椿などの木々たち、クロアゲハやセミ、タヌキなどの動物たち、これを読んでくださるあなた。わたしを今まで育ててくれた両親やご先祖たち。わたしにかかわってくれたすべての人たち。
そこには愛が感じられないような経験もありました。でもすべてはここにわたしが至るまでの愛ある必要な体験でした。そう思います。
参考:ドラマ『ソウルメイト』で見る、魂の伴侶との幸せな出会い方、健全な関係の育み方
わたしの大好きな”生まれる前の小さな魂の話”があります。
わたしたちは、この世界に生まれる前の小さな魂だったとき、物質世界で体験したいことを決めてくるといいます。例えばすべてが完璧な精神世界では、怒りという感情を持つ体験ができないので、赦しを経験したいとか。
赦すためには、傷つけてくる相手が必要になります。そこで、とても友好的な魂が「じゃあ、わたしがあなたの次の物質的な人生でなにかをするから、それをあなたが赦したらいいよ」と請負います。
小さな魂であるわたしは、「え、どうしてそんなことをしてくれるんですか? あなたはとっても完璧なのに」と仰天します。
すると友好的な魂は、「あなたを愛しているからするんだ。赦しとしての自分を体験したいんだろう?」といって、「でも約束してほしい。想像しうる限りあなたに最悪なことをわたしがするとき、その瞬間に、本当のわたしを思い出してほしい」と言います。
そして小さな魂は、「いまと同じように完璧なあなたをみます。本当のあなたをいつも思い出します」と約束します。
当然相手を赦せないときもあります。そんなときはまず、赦せない自分を赦すことから始めます。心の準備ができたら、ショックだったこと、言えなかったこと、未消化のことをもう一度噛み砕きます。出すことのない手紙を書いてもいいでしょう。一年二年ではムリかもしれません。時間がかかるかもしれません。でもその抵抗を受け容れたときは、願望が満たされないことで経験する苦しみや怒りから自分を解放することができます。そして、愛や幸せ、喜びを選択する自分を赦すこともできるようになります。
ニール・ドナルド・ウォルシュは、他者と関係を持つ目的は、本当の自分が何者なのかを決定し、宣言し、創造し、経験し、最高の姿を表現するためだと言います。たったひとりでは、自分を知ることも表現することもできないからです。
ひとりきりの自分を愛せたとき、自分との信頼関係が築けたときに始めて、期待や願望を手放して、相手というか、どういう反応をするにせよその人を愛すると決めた自分のことを深く愛せるのだと思います。
この記事をもっと深めるためにオススメの本:
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