細かく刻んだガーリックを炒める匂いが好き。
フライパンで少しずつ黄金色に変わっていくガーリックを眺めて香りを楽しんでいると、なんだかまっとうに生きているような気がします。
ガーリックのあとは、角切りにした玉ねぎ。玉ねぎが透明になってしんなりしてきたら、冷蔵庫に置き去り状態だったちょっとへたったキャベツを大量投入して、今日はスープにすることにしました。
頭のなかがいっぱいいっぱいになってきたら、野菜を切ることにしています。
心を考えに奪われるとき、野菜を切ったり炒めたりするうちに、その手触りや匂いを通じて、五感が伴う、より全身的な世界を再体験できるようになります。
これは、わたしなりのNLP(神経言語プログラミングNeuro-Linguistic Programming)手法のひとつなのかもしれません。
わたしたちは「神経」(見る・聞く・触る・味わう・嗅ぐという五感からの情報)を通して、自分や身のまわりのものを「言語や、(直感、イメージ、感覚などの)非言語」で意味づけしながら、理解し、記憶しています。
仏教では、わたしたちの現実は「五蘊(ごうん)」と呼ばれる、5つの構成要素で成ると考えられています。それは「色(しき)」「受(じゅ)」「想(そう)」「行(ぎょう)」「識(しき)」という心と体が受け取る5種類の情報。わたしたちはこの集合体で出来ています。
有名な経典の『般若心経』は、五蘊の本質は「空(くう)」だとして、すべては実体のない錯覚だと説きます。「温かい」「青い」「悲しい」「痛い」というとってもリアルに見えるあれこれはどれも永遠に続くものではないし、それ単独で存在できるものも何もない。
絶対的に見える生や死でさえ常に形を変える現象のひとつで、それそのものとして実在しない。作用しあって関係しあうことによってのみ存在する。
起こることも消滅することもない。汚れることも清らかになることもない。
減ることも増えることもない。
「ああなりたい」「こうなれない」と辛く感じたり、妬んだり、愚痴ったりして落ち込んだとしても、そもそも「これは確か」と思うものは全て、わたしたちの心が作り出した錯覚というのです。
わたしたちの世界は、過去にどう感じたり理解したかという経験に基づきますが、それはまるでAIのようにプログラミングされた自動反応によるものです。
「A→B→C→D」だから、この沸騰するヤカンは素手で持たないほうがいいだろう、と常に行動を割り出していたら間に合いません。そこで「熱ッ」というかつての感覚や、「これは危ないよ」という周りの大人たちの助言だったり、いろんな体験や記憶のデータをたよりにオートマティックな行動をとっています。
『般若心経』はそういうプログラミングされた常識をいったん覆せと説きます。すべての現象は「空」だからと。さらには「空」という概念ですら実体がないんだとひっくり返し、この経典ですら真理だとして「囚われるな」と刷新します。確実なものは何もないというのが確実なんだと、徹底的に斬新な教えを説いています。
心理学者たちは心の奥底にあるけれど、意識できないプログラミングのことを「無意識」や「潜在意識」とも呼びますが、そのような設定でわたしたちの思考や行動の9割以上が定められるとも言われています。
プログラミングによる世界観をもとに自動的な行動を無意識に繰り返し、それはやがて習慣となり、現実化します。つまり望むにせよ望まないにせよ現実とは、見えないプログラミングの成果です。
そこで、どうせすべてが仮の姿なのだとしたら、それを受け入れたうえで自らの感覚を取り戻し、気持ちを感じ、もう少し自由な自分になろうとわたしは思いました。
あきらめをベースとした開き直りです。イメージは裸踊りの高田純次かな。
コントロールすることをあきらめたことで、不思議なものでより自発的になれました。
ただ今この瞬間に感じるものを味わおう、と。
「ある」と思い込んでいることはすべてわたしの思い込みでまぼろしだとしたら、のめり込みすぎずに、でもその体験を堪能してしまおう。
わたしにとってそれを実行する行為が瞑想であり、絵を描くことであり、文章を書くことであり、野菜スープ作りでした。
一見まったくヒーリングとは関係ないように見える野菜スープ作りが、わたしにとっては無意識の認知、行動パターンの修正に繋がっています。このように人それぞれ、ちょっと心を緩ませたいときに役立つ「こんなことが?!」というNLP手法があるものです。
例えば禅修行でも作務が瞑想のひとつとされますが、家事には意外にもヒーリングになりうる余地がかなりあります。道元はそれを見抜き、永平寺での日課に組み入れました。
またアートセラピーのように、絵や文章、歌や踊りなどで創造性を発揮して思考の枠組みを外す際には、うまい下手という一切の評価や判断を外すことが鍵になります。