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ただ居るだけで幸せになる、猫や赤ちゃんの存在。
猫は四六時中寝ている生き物だから、「寝る子」と書いてネコになったんだ、という説を読みました。その信ぴょう性はわかりませんが、ひょっこり顔を出し、カツオ節を食べ、あくびしてゴロンと寝転がる野良猫たちの暮らしぶりを観察しているとその通りかもしれないと納得します。猫たちは私に良い原稿の書き方も、ホームページの構築も、障子の貼り方も教えてくれないし、助けてもくれない。当然のように出されたカツオ節を食べて、庭に糞をして去っていきます。でも登場するだけで、「猫♡」と一瞬で私をハッピーにして、尽くさせるという力がある。赤ちゃんもそうですね。泣いてミルクを飲んで寝てウンチをするだけなのに、私たちを幸せな気持ちにしてくれる。
そんな猫や赤ちゃんのようにただ自由気ままに生きることで、周りの人を幸せにできたらいいなぁ。心から羨ましく思いますが、そうもいきません。
吾輩は人である。名前はある。なんなら、マイナンバーまであって、”国民1”として管理されている。徴税もされる。その対価に、区立図書館で本も借りる(返却期限二週間)。
ということで、赤ちゃんからおばさんになった時点で、何もせず、欲しいものを欲しいと好きに主張し、ただ存在するだけで、周りを幸せにするというのは、ずいぶん難しいのです。でも、大人になってもそんな人も実在しています。たくさんではないけど、ゼロではありません。また、よくよく考えれば、友達や家族は、何かしてくれなくてもただ生きていてくれるだけでいいという存在です。だから、そうなることも、無理ではないのです。どうしたらいいのでしょう?
何かができないと価値がないという社会の裁き。
「稼がなきゃダメ」「なんかスペックないの?」「もっと頑張らないと」
「もう若くないでしょ」「数字につながらないと意味がない」
とは言え、社会と関わると、こんな声で、評価、批判、感情がついてまわります。正直心が折れますし、私自身、渾身の記事があまり読まれなかったりすると、挫けて「私のメッセージなんて誰も読みたくない」と一気に自己否定の沼にハマったりもします。
それは心理学者マズローの欲求五段階説のように、私たちには「人から認められたい」という強い承認欲求があって、世間や他人からの評価がイコール、今の自分の点数とするところがあるから。
確かに、経済的社会人としての得点というのがあります。たくさん売り上げがある人のほうがそうでない人に比べて、営業能力は高いし、高いアクセス数があるYouTUBEチャンネルやブログの方が伝え手として人気もサイト価値も高い。これは、シビアな事実です。
「レンタルなんもしない人」というサービスから見た、存在給とは?
でも、それって本当にその人そのものの価値なのかなぁ…?
そのギャップを感じて、スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐる社会実験してみたというのが〈レンタルなんもしない人〉さん。「存在給」という言葉が表すように、人にはただそこに存在するだけで価値があるはずだ。それを実験しようと、「スペックゼロのただ一人分の人間の存在を一時的に提供します。基本的に自分がいなくても依頼人だけでできることを、同行、同席、見守り(漫画を読むばかりでみていないときすらある)します。ただそこにいるだけです。ごく簡単なうけこたえ以外なんもできかねます」といったサービス内容で、Twitterに看板を掲げました。
友達や家族なら「なんもしなくてもいい。ただ生きていてほしい」と願えたとしても、やったサービスの報酬で繋がっている仕事関係にまで、スペックゼロの存在価値が広げられるというのでしょうか。
「レンタルなんもしない人」さんは、もともとエリート大学で地震予測の研究をしていました。でも、どれだけやっても絶対に地震は予見できないと実感し、大学院を辞めて出版社で参考書作りをします。その後フリーライターになって、貯金生活しながらこのサービスを開始。当初は、交通費とかかった場合にのみ食費をいただくと、サービス料ゼロでスタート(現在は1件1万円)。報酬を設定しないけれど、サービスに賛同した見ず知らずの人が突然Amazonカードを贈ってきたり、と面白い化学反応も起こったそうです。
なんだかとんでもない話ですが、これが独身ならまだしも、さらにびっくりなのは30代半ば(当時)の彼には妻と幼い子供がいるところ。別居の危機まで経験して、常軌を逸するようにも見える、彼のこの「レンタルなんもしない人」サービスへの固執には、彼の亡くなったお姉さんの存在があります。彼にとっては、存在するだけで価値があったお姉さんが、就職活動に失敗したことで自殺したのです。
頑張らない、なにもしない、サボることで生まれるパワー。
そこで彼は、社会的な尺度で、低い点数をつけられた人たちが世間に合わせようとストレスが募って亡くなったり、本人に備わった力がどんどん弱まっていく状態に疑問を持ちます。「なにかができるから価値がある」と言ったら、自分の存在価値を既存のスケールに当てはめられてしまうので、「だから僕は、なんもしない」と決めたのです。
彼の行動は賛否両論あるでしょうが、私はものすごくクリエイティブだと思います。高額のAmazonカードが突然何度も知らない人から贈られたり、漫画家さんの事務所で漫画を読んでいるだけで「居てくれてありがとう。おかげで筆が進みました」と心から感謝されたり。やがてそれが本になって、ドラマ化されてと、彼を中心とした創造性が発揮され、関わる人たちの生命力も高まりました。
冗談みたいに見える試みだけど、これは、ものすごく切実な思いが伝わる、自分を使った社会実験だと私は思いました。
動かすこと、なにかをやることのほうが、行動している感じがしますが、静かであること、なにもしないことを選ぶことが、大きな力になる。まるで合気道の世界のような、世界の仕組みを見せられたように感じます。
もっと色んなことができるはずだ。
効率的に過ごしていない。働かないと。
時間をムダにしている。
サボっている。これではダメだ。
何かやっていたほうが、意味がある。
もっともっと出来る。このままでは、充分ではない。
嫌われる。認められない。役立たない自分には、価値がない。
わたしも油断するとすぐそういう考えに陥ってしまいます。雨の日なんかは、特に低気圧も重なって、グッと落ち込んでしまう。サボると言えば言葉が悪いですが、なんもしない、ただ存在する、というのは言い換えると、頭だけで人生全てをコントロールしようとする心をゆるめること。赤ちゃんや猫のように、存在だけで神々しくあるためには、心、魂、体の全体で生きること。
ニール・ドナルド・ウォルシュは神とひとつになった状態とこれを呼びますが、そこに至るためには、ダメだと思う自分の一面を赦すことだといいます。
自分の神性でないと思う部分を赦すまでは、自分の神性がわからないだろう。そして他者についても同じことができなければ、他者の神性を見抜けない。赦しとは、認識の拡大である。自分や他者の神性でない部分を赦すとき、自分や他者のほんとうの神性を経験できる。そのときあなたは、赦しは必要ないことを理解するだろう。誰が誰を赦すというのか? 何を赦すというのか?
——わたしたちはひとつである。
—ニール・ドナルド・ウォルシュ著、吉田利子訳『神とひとつになること』(サンマーク出版より)
ただ居るだけで価値がある、存在給と繋がる方法。
体、心、魂はつながっています。存在給なんて信じられない。自分のことを“ダメだ””価値がない”と頭で思うとき、体の筋肉は硬くなっています。肩や首は緊張し、呼吸は浅くなります。そんなときは体の筋肉を緩ませるといいです。瞑想しながら体の緊張を緩めていくのもいいでしょう。
参考記事:体・心・魂が求めるものに満たされた、幸せでホリスティックな生き方とは?
参考記事:この本でわかる! ハイヤーセルフ、ソースエネルギーをトランスパーソナル心理学で説明
赤ちゃんは、眠くなると手足が熱くなりますが、あれは脳に集中していた血液が末端に向かったからです。この状態では物思いに沈む哲学者のようにあれこれ考えてはいられなくなります。そこで、自分の価値が信じられず、頭の中がネガティブな言葉でいっぱいになってどうしようもなくなったときは、瞑想が苦手なら、まずお風呂がいいです。ゆっくりお湯に浸かって、体を緩めてホーッとため息でもつきましょう。お風呂上がりにお気に入りの音楽を聴きながらストレッチしたら、もう完璧です。