先日以下のようなご質問をいただきました。
ありのままの自分を大事にするというのは、私も心からそう生きたいと思っています。と同時に、この考えを突き詰めると、今に満足しているのだからもう向上心を持たなくていいことになる気もします。「努力すること」=素晴らしいことという認識で生きてきた私にとって、今の幸せを感じることへの罪悪感もあります。今の幸せを受け入れることと努力することのバランスについて教えてください。
素晴らしい疑問だと思います。私もコレをずっと試行錯誤してきましたし、修行グセのある私にとっても切実な学びのひとつです。
それに対する私なりのお答えをしたいと思います。結論としては、”ありのままの自分を大事にする”というのと”向上心を持つ”というのは、同じベクトル上にあるということ。そして、”ありのままの自分を大事にする”ことは、”何もやらなくていい”ワケではなく、”堕落する”ことには決してならないということです。表面的な現れに注目するというよりも、私たちが通常イメージする”頑張らないといけない”とは、行動をとるスタンス、マインドが違うということです。
目次
泣いて笑って死にかけて学んだ幸せの方程式
以下は私なりの幸せの方程式です。
1. ありのままの自分(現実)を受け入れるのが始点。
2. 思いやりと誇りを持って、心から信じること、好きなこと、この世界と一緒に輝けることを愚直に磨き続ける。
3. おのずと現れた結果として、誰かが喜ぶと幸せが倍増する。
※この方程式に至った詳しい経緯は、greenz.jpに書かせていただいた記事ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学とし、ここでの説明は省かせていただきます。
ありのままの自分(現実)がスタートライン。
現時点の自分、目の前の現実を受け容れるということは、どこへ向かうにも絶対の始点になります。それを否定すると、現実に即した判断ができないし、今目の前にあるものを活用もできません。
例えば「何かをするために人脈がない」とします。今の現実は、1秒前までの自分がやってきたことの結果です。「ないから無理」と否定するのではなく、現実として受け容れ、今からそれを変えることができます。現在は過去の結果で、未来は現在の結果だからです。まず現状を受け入れます。持っているものが何かを見て、それに目を向けます。大事にします。感謝します。大切な基盤にします。たった一人も、周りに人がいないですか? それは無いはず。私たちは一人では生きていけないからです。まず自分、そして周りの人にとって、自分といることが幸せな時間になるように工夫します。どんな結果も、最初の一歩から始まります。
とはいえ、それがわかるまで私はめちゃくちゃやってきました。大人になってからの反抗期のようなものです。ゴールを設定して、それにガムシャラに取り組むという自分のパターンではそれなりの結果を生むものの、いつもゴールに達したときにピンと来ない。そんな自分のやり方に疑問を感じて、家を引き払ってホームレス状態になり、朝起きてから行きたい場所、やりたいことを決めるという生活をしてみたことがあります。
いくらでも寝坊できるし、毎週300ページの論文や教科書を読まなくていい、95%仕事関係からだったケータイは鳴らなくなり、超平和な毎日。フリーダム! でも、次第に虚しくなってきました。
放浪旅行をしたり、ヒッピーみたいに暮らしてみた結果、ようやく理解したのは、自由というのは制度や規範、ルールからの解放ということよりも、むしろ人との繋がり(制限)の中で、自分で納得して行為を決めることなんだと感じました。当時は学生時代に読んだソールベローのこの本のことばかりが思い浮かびました。まるでこの主人公のようにノイローゼ状態に陥っているのでは?と自分のことを思ったこともあります。
そこで、自分の心と、世の中の成り立ち、ルール、空気、の一番心地よいポイントを見い出すことが自由だと思います。”ありのままの自分を受け容れる”というのは、ただ漫然と過ごすというわけではありません。ありのままの自分=一人勝手気ままに過ごす、となるとこの本の主人公のように虚しくなって、心が不自由になります。
ヒンドゥー教の聖典『バカヴァッド・ギーター』をもとにしたディズニー映画『ライオン・キング』の主人公シンバも、父の死が自分のせいだと罪悪感にさいなまれ、へんぴな土地で「ハクナマタタ(気にするな)」と気楽な数年を暮らします。どんな問題にも関わらず安楽でも、自分が生きている意味がわからないことで悩み苦しみます。最終的には自分の役割を理解し、それによってたくさん大変なことがあるけれども、王国の調和と繁栄を回復させて命を輝かせます。
この世界と輝けることを愚直に磨く。
ありのままの自分を始点にしたら、心が納得する形で自分を磨きます。私たちの魂は、生まれる前にあらかじめ”こういう学びをして、魂を磨きたい”と設定してきているからです。魂磨きは、”努力する”という言葉にも置き換えられると思います。でも、それは通常私たちがイメージする努力とは違う形での現れである可能性もあります。
例えば〈レンタルなんもしない人〉さんのような方に対して、”何にもせずに過ごしているじゃないか”という意見もあると思います。私はそうは思いません。彼は、”人にはただそこに存在するだけで価値があるはずだ”という社会実験を自分の人生をかけて行なっていると思うからです。彼は彼の生きる筋を通しています。むしろ世間やその常識と絶対にぶつかることを承知しながらすごい挑戦をしていると思います。「何もしていない」という表面的なところだけを捉えると、「ものすごいことをしている」という本質を見失います。
そして大切なのはゴール設定。あくまでも自分の目指す先ということです。世間がそうだから、親が喜ぶから、注目されるから、成功できそうだから、ということ以前に、自分が本当にそうありたいか。そういう自分を世界と共有して一緒に輝きたいか。それを見間違えると、努力がただただ苦しいだけになったり、目標を手にしたとき、さほど嬉しくなかったりします。また目標は表面的なものよりも、そこでどういう体験(体感)をしたいのかまで掘りだげておくほうが、誤りを未然に防げます。
そうでなければ、犠牲的な形でゴールに向かって粉骨砕身し、緊張の糸が切れた瞬間、燃え尽きてしまったり、そこに達したときに周りを見渡して、全然幸せじゃなかったなんていう結果に陥ってしまいます。
私には学生時代に映画監督のソフィア・コッポラさんに取材したいという夢がありました。それがようやく叶ったとき、「アレ?!?」と、残念な結果に終わりました。インタビューの制限時間は15分で3つの質問をする必要がありました。英語が分からなかったので通訳さんを介して行いましたが、素晴らしい通訳さんにもかかわらず、まさにロストイントランスレーション状態。口数の少ない彼女がようやく何かを話してくれても、心を通わせ、それを膨らませることができず、急ぎ足で次の質問へ。
おのずと現れた結果、誰かが喜べば幸せが倍増する。
結局学生時代から大切に買い貯めていた雑誌や本やビデオの言葉を拾いながら記事を補足・構成しました。そのときに学んだのが、表面的なゴール(ソフィア・コッポラさんに取材する)に向けて努力するのではなく、そこでどんな思いを体験したいのか(深い意思の疎通がとれ、読者があっと驚くような原稿を届けて、ソフィアさん、読者、雑誌、私の全員が感動する)まで掘り下げてゴール設定しておくべきだったということ。
例えば、当時の自分(現実)は英語ができなかったから、それを受け容れ、でも英語で直接話すほうが自分がワクワクするゴールに達せそうと思うなら、彼女が気持ちよくインタビューを受けている動画を見て、言葉選び、インタビュアーとしての姿勢を身につけておくとか。できることはあったと思います。またとない機会をいただいたのに、それを十分に活かせなかったのが本当に悔しかった。だから、英語のインタビュー動画を毎日10分見るという習慣がつきました。特にその予定はなくても、もう同じような思いをしたくないからです。
頑張るスタンス、マインドが違う。
自分のことを24時間365日見ている人は、自分。他の人たちは、いろいろ言ったとしても、そこまで一緒にいられないんです。さらには、私の人生を代わりに体験してくれることもできない。だからたとえ他の人全員が無理と言っても、自分は自分のことを信じてあげられたり、逆にしんどくて動けないときは、そっとご飯に誘ってあげられたり。「今日はもう寝ようよ」って言ってあげられるような自分。そんな一番の味方で、信頼できる存在であり続けることが大切です。
自分が自分にした約束を守ることは、自分を一番大切にしていることでもあります。約束をいつも破る友達は、信頼できないですよね? 言葉ばかりで行動が伴わない人からは、大事にされているようにも思えませんよね? だから自分とした小さな約束事を一つ一つ果たしていくこと。
それは、はたから見ると「甘やかしている」よりも、むしろ「大変そう」「しんどそう」「すっごい努力している」となるかもしれません。でも、自分にとってはそれは「ありのままの自分を大事にしている」行為になるんだと思います。”他人が求めること”の前に、あくまでも”自分が求めること”をやっているからです。
”やらされてやる”(被害者意識、必死)から”選んでやっている!”(自分中心、夢中)と、行っているマインド、やっているスタンスが違うと、表面的には同じ努力に見えても、それは”犠牲的にガムシャラに頑張る”ではなく、”自分を受け容れて大切にする”になっています。そういう意味で、私の考える”ありのままの自分を大事にする”と”向上心を持つ”というのは、同じベクトル上にあるのです。
☆Makiwari Radioとして聴くこともできます。