“カワイイ”を再定義する

幼い頃に、『ことりのぴーこしゃん』という絵本を熱心に描いていました。本来は“ピーコさん”なのですが、舌ったらずな子どもの発音がそのまま残って、ぴーこしゃん。

 

ぴーこしゃんは「世界で一番きれいな宝物」を探しに冒険に出ます。ところが情報通のカラスも、地面の中まで見渡せるミミズも、とっておきの秘密を知っているという噂のライオンの王様に聞いても、宝物は見つかりません。くたびれ果てたぴーこしゃんが見上げた空にはルビーの夕焼けが広がっていました、おしまい。という、どこかで聞いたようなシンプルなお話です。

 

今も昔も言いたいことが、ほとんど変わっていないことに愕然とします。

 

ぴーこしゃんはずんぐりむっくりな頭でっかちな黄色い鳥です。ものすごくスタイルが悪い。けれども母はそれを見て「すごい上手ねぇ」と褒めちぎります。

 

母が描くのは、顔が小さくてスラッとした、キチンとした小鳥です。はたから見れば、そのほうがよっぽど鳥らしく、現実にも即しています。

 

「お母さんのは、顔が小さすぎてほっそりしすぎだから可愛くないんだよ。もっとまるっとさせて、頭を大きくしたらずっとずっと可愛くなるよ」と独自のカワイイの定義をもとに、当時のわたしは堂々とアドバイスしていました。

 

顔が大きくて、まるっとしているほうが絶対にカワイイという揺るぎない自信。

いつそれが失われたのかと振り返れば、4歳上の兄に習いたての英語で「ビッグフェイス」と冷やかされてグラつき、中学生になって雑誌『seventeen』を読み出した後に、安室奈美恵さんブームの時流が決定打を出して「わたしの美意識は、何かおかしい」と疑い出したことでしょうか。

 

お小遣いを貯めて資生堂のカフェイン入り顔専用引き締めクリームを買い、「最小量で最大限の効果を出す!」と、窒息しそうになりながら顔にラップして寝たこともあったっけ…。

 

そして翌朝、鏡に映る以前としてむくんだフェイスラインにため息をつきながら、涙ぐましい努力を繰り返していた物心ついてからのわたし。

 

5歳のわたしなら「ぽっちゃり」に対する否定的な価値観、痛みがまったくなかったので(それどころかそれが“カワイイ”と信じていたので)、それに対して何か言われたとしてもなんともなかったでしょう。

 

同じ人間でも生きている世界がまるで違うのです!

これがパラレルワールド。

わたしたちはそれぞれ自分の内側を反映した現実を生きているのです。

 

だからどんなにそれらしい言葉や刺激的な情報が巷にあふれていても、自分の感じ方を一番大切にしてほしいんです。ほっそりがしっくりきてもいいし、ぽっちゃりが好みかもしれない。わたしなりの”カワイイ”の感じ方、わたしなりの”あれやコレ”、それ以上に重要なものはありません。

 

ダライ・ラマ14世が来日されたとき、女性誌anan読者に向けて

「外側を磨くことに一生懸命になるよりも、内側を輝かせてください。

内面から放たれる光にはなにものにも代えがたい美しさを生みます」

と語られました。

 

当時はそれを読んで「人のためになること、利他的なことや親切なことをしたり、

常に向上心を持って学び続けて内面を磨くことが大切なんだな」と受け止めました。

もちろんそれは大切なことです。

でも今はその前の大前提として、その人がまずは内側の自分を輝かせること、

幸せであることがその人の生命エネルギーを放ち、そして周りに愛と光を広げることで

より大きな輝きになるのだと理解しています。

そこで必要になるのは、できない自分も赦すことです。

存在給という言葉ありますが、それはなにかスキルが無くても、なにもやらなくても、ただそこに一人の存在があることに価値があるという考え方です。それを”交通費と飲食代(かかれば)のみ頂ければ、ただ一人分の人間の存在のみを一時的に貸し出します。ごく簡単なうけこたえのみ何もできかねます”というサービスにしたレンタルなんもしない人さんの社会実験は、「こんな生き方もできるのか!」と私に衝撃を与えました。

 

カワイイだって、スペックだって、存在価値だって、

ふだん、あなたが信じていることはなんですか?

その価値観に生きていて、しっくり来ていますか?

そこに居る自分は、好きですか?

 

わたしたちは、それぞれが信じる世界で生きています。

そして、住みたい世界を自分で選ぶことができます。