さて異国の地で、ホストマザーに追い出されて突如ホームレスになった私。この後、家探しという難題はアメリカ生活で呪いのように続くことになります。なんとか語学学校の学長がホームステイを希望しない学生に斡旋していた短期旅行者向けのアパートに一室部屋を見つけてくれます。ただし3週間限り。
場所はシビックセンターというサンフランシスコ市庁舎のすぐ裏という、便利かつ超危険なワイルドなところ。休憩所はマリファナの香りでぷんぷんしているし、wifiもほとんど通らないし。金額はシングルルームでバストイレ付きで3週間で20万円ぐらいだったと思います。お金にも限りがあるので、そんな高い部屋ではなくルームシェアがよかったのですが、空きがありません。しかも3週間後には本当にホームレス!!かろうじて繋がったwifiで「何かがあれば必ず飛んでいくから相談してください」と言われていた元カレに連絡するも飛んでこないどころか、電話の折り返しさえ無い…。
そしてへたっぴいな英語を駆使してクレイグスリスト(craigslist)という掲示板でハウスシェアの部屋探しを開始しました。サンフランシスコ、バークレー、オークランドエリアを含んだ北カリフォルニアのベイエリアの物件は、みんなが部屋を借りたくて貸し手市場です。写真と情報を読んで良さそうなところを見つけたら、即メッセージを送る。デイトレーダーになったような気分で、クレイグリストに目を光らせていました。
「日本から来た留学生です。心理学を学びたいと思ってアメリカで勉強しています。私は綺麗好きで静かですが、フレンドリーです。ぜひ部屋の下見をお願いしたいです。まだ部屋に空きがあれば、どうぞお返事ください(I’m an international student from Japan, studying English to study psychology in America. I’m clean and quiet, but friendly. I’d like to check and see your room. If it’s still available, please contact me at …..@gmail.com or phone #.)」
“綺麗好きで静かですがフレンドリーです”って自分で自分のこと言う?!と、赤面しますけれど、ほかのアメリカ人たちの返信例を見ていると、こんなん序の口です。許してやってください。でも静かさには定評があります。気配ゼロで「え?!!!居たの?!?!」と一緒に暮らしたハウスメイトたちによくお化け扱いされたっけ。それに加えてno drama (トラブルを招きませんよ)とかno drug and alcohol(クスリやお酒はやりません)なんかもお決まりのフレーズでした。
でもメッセージを30通送ってもレスポンスゼロ!「会ってもいないのに、一体私の何が気に障ったんだろう…」と落ち込みます。今考えると、語学学校の留学生っていうのがあまり良いフレーズじゃない。大学の生徒じゃないからすぐに入って出て行きそうだし、遊び目的で支払いの責任を果たせるか信用できないんだなと。相手の立場になると見えてくるものってありますよね。でもそのときはもう自分のことでいっぱいいっぱいで。
でもあまりにも返事がないので、途中で「日本からやってきたジャーナリストで、バークレー大学で心理学を学ぶために最低でも数年は部屋が必要です。半年は確実にお借りします」という書き方に変えたところ4通ほど返事が来て、そのうちの1軒に決めました。ジャーナリストって、古巣でドタバタ日記を不定期で連載するというのもそれに含むという、そして主な寄稿先は日記帳(ジャーナル)…。
参考記事:不安、怒りを書いて陽転させる方法
さて家主はマイケルという50代の男性で、ほかにハウスメイトの女性が2名いました。一人は20代のイタリア人、もう一人は30代のアメリカ人。場所は、ヘイト・アッシュビーというヒッピーたちに愛されたエリアで、最寄りの駅はコール・ヴァレーという品のいい小さな駅。歩いてすぐのゴールデンゲート公園は美術館や植物園があり、近所には素敵なカフェもいっぱいありました。向かいのゲイカップルに聞いたのですが、この近所はマリリン・モンローが暮らしていたこともあったそうですよ。
家は占い屋敷をペールトーンの砂糖菓子にしたような建物で、月の家賃はシングルルーム光熱費込みで約9万5000円。今考えたら無職でよくそんな金額を…と思いますが、その前の3週間の家賃20万円に比べて、当時は本当に「助かった」と思いましたね。しかもこの家賃は当時サンフランシスコの相場としてはかなり値ごろなんです。確か部屋が決まったのが退出日の3日前ぐらい。このときから私は「本当にヤバイ状態になって、やれるだけやってももう無理だ…とお手上げ状態になったときに、必ず救いが来てなんとかなる」という体験をし続けることになります。とはいえいらない家具がごった返していて、窓からは隣の家の壁しか見えず、その先わずか数十センチに迫るという倉庫のような圧迫感のある部屋でした。そして再びマイケルのテレビの音がうるさくて勉強に集中できない…。このときに私は心に決めます。
「絶対次の家は、窓からの眺めが良い静かな部屋!」と。まぁそれが叶うのは、ずいぶん先になるのですが。でも願望は飛ばしたら必ず叶うというのは本当で、2年後にはそんな部屋で暮らしていました。
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話を戻します。外国人でクレジットヒストリー(クレジットカードを利用してきちんと返金したという記録。部屋探しの信用になる)が無い私は、以降部屋探しに泣くのですが。マイケルがざっくばらんとしていたのと、かつ前に部屋を貸したのがUCSFに通う日本人医学生だったようでクレジットヒストリーを問われることはおろかデポジットもなく、部屋に入ったその日にその月の家賃を支払うというありがたい契約でした。
でも知らない男の人と共同生活とはいえ暮らすのは初めてだったのと、図書館で会った人につけられるという経験もしたので(アジア人女性は危ない)、最初の夜はハサミを握りしめて眠りました。翌日からはもう爆睡で、よだれを垂らして寝ていましたけど。
残念ながらその後マイケルから連絡があって、この家は私が出て一年ほど経って売りに出されたそうです。「テックの人間がやってきて、生まれてからずっとここで暮らしてきたけど、もうサンフランシスコは自分の育った街じゃない」と言っていました。きっとものすごい金額で売れたのだろうと思います…。
ここは自分が初めてアメリカで見つけた部屋ということで思い出深い場所でした。TOEFLの勉強で缶詰状態になっているときには、同じ語学学校に通って居た日本人のカメラマンの友だちが訪ねてくれて、彼女と近くの公園を散歩したこともあります。当時友だちもいなくて英語の世界で、彼女とは日本語で「わぁーーー」と思っていることを話せてよかった。アメリカ行ったら英語を上達するためには日本人とつるむなと言われますが、私は長期間海外で暮らすならそうじゃないと思います。当然アメリカ人だから、日本人だから、と一概にはいえませんが、どれだけアメリカに居る日本人の人に助けてもらったことか。だから両方大事にしたらいいと思います。
家賃や学費が驚くほど高かったので、私はいつも節約していました。外食はほとんどせずに、ベーグルをたくさん買ってピーナツバターを塗って、GoodWillというリサイクルショップで買ったアルミの弁当箱に入れて持ち歩いていました。私が歩くといつもカランカランという音がするので、彼女が「この音を聞くたびに、どいちゃんを愛しく感じるわ…」と言ってくれたことを思い出します。
37歳、元女性誌編集者。今はピンヒールにChloeのバッグではなく白いコンバースにデニム、一歩前を進むたびにリュックからはアルミ缶に入ったピーナツバター付きのベーグルが太鼓のように鳴り響きます。