今ここに在ることとエゴの解放、そして大いなるつながり

私が「今ここに在る」という考え方に興味を持ち始めたのは、ティク・ナット・ハン師(タイ)がきっかけです。2012年のゴールデンウィークに、韓国の観音信仰の聖地 百潭寺(ペクダムサ)で開かれた彼のマインドフルネス合宿に600人の韓国人参加者たちとともに参加したのです。

 

それは日本では東日本大震災、そして個人的には離婚した翌年のことでした。毎日を大丈夫とやり過ごしながらも、「本当にこれでいいのかな?」という心の声がありました。一度それに耳を傾けてしまうと後には戻れないことがわかっていたので、毎日を忙しくすることでやり過ごしていました。

 

600人規模の合宿中では、食べるときは黙って食べることだけに集中する。山道では大地を踏みしめながらみんなで歩く瞑想をして、森の中でブラザー(僧侶)とシスター(尼僧)が奏でるG線上のアリアに耳を傾ける。輪になって今の自分の思いを話し合う。聞く人は心を込めて耳を傾け、それに対して意見や判断はせずに安全に話せる場所を作ることに集中する。そしてタイの法話をみんなで聞いて坐禅。人と話さなくても良いし、愛想笑いの顔を作らなくてもいい。自分でも驚くほど、ずっとずっと泣いていた5日間でした。

 

そこで私は初めて、空(くう)という仏教思想について学びました。

 

欧米で平和活動者として尊敬されるタイは詩人でもあり、難解で堅苦しいイメージの仏教の考えを私たちに馴染みやすく、詩的に美しく説明されました。

 

「美しい海があって、その水が雲になります。その雲が雨になって、木になります。木は紙になって、そして本になり、詩や物語になります。ですから、詩や物語は海であり、それが書かれた紙に私は雲を見ます。空は詩であり、詩は空なのです。私たちは全てこのように、私たち以外のものから出来ています。ですからあなたがご自分のことを愛せない、憎むというのなら、あなたは空や虹や鳥、そして私や仏のことを憎むということです」。

 

あるときジャーナリストが、キャベツ畑で精を出していたタイに「畑仕事をする時間を使って、詩や作品をもっと生み出されたほうが有効ではありませんか? それがあなたの天命なのではありませんか?」と言ったそうです。

 

それに対してタイは、「キャベツを育てなければ、私は詩を完成させることができません」とお答えになったそうです。

私たちが頭の中で「海」「雨」「キャベツ」「詩」「あなた」「私」と区別して、優劣をつけているあらゆる存在とは自分が捉えた解釈の産物にすぎない。その真の姿とは無常であり、相互に存在し合うもの。今ここに心を傾けて、肉体感覚を通じたライブ体験をしていくことで、自分の(世間の、他人の)物差しを超えて物事をあるがままに認識する練習をしようというのが、このマインドフルネス合宿でした。

 

実際に私は歩く瞑想をしながら気づきがありました。自分が「頭」のほうが「足」よりも偉いと思い込んでいたことに気づかされたのです。「足」は「頭」によってスピードや歩幅も制御されるべきものなのだと。「打ち合わせ場所に間に合うためにスピードアップして」「ジムで30分時速8kmで走る」といったように。

 

このとき生まれて初めて、足の裏が感じる感覚を主導にして、足が動くままに任せてみるという歩き方をしてみました。外から見ても何も変わりませんが、これは私にとっては大きな内なる変革で、小さな行為の中でも当たり前や思い込みが変えられるのだと体験できたのです。

 

タイはベトナム戦争を止めようと僧侶として平和社会活動をしてきましたが、仲間たちは投獄されたり、殺されたり、プロテストの一環として焼身自殺した人もいます。そこで大変心を痛めた彼は重度のうつ病を患います。世界中の名医たちが癒そうとしても治らず、最終的に彼は足裏の感覚に集中し、一歩一歩大地を「今」「ここ」「今」「ここ」と踏みしめ続けることで、うつ病を完治させました。平和とは一人一人の平和から始まる。平和のための行進とは、平和な心で歩くことでのみ始まる。マインドフルネスをたくさんの人に教えようと決めたのです。

 

大乗仏教の心の成り立ちを説く唯識思想では、心理学でいう潜在意識、末那識(まなしき)というものがあります。夢を見ないほどぐっすり眠っているときは末那識の作用はストップしますが、それ以外の時間はずっと「私である」ということに執着し続けます。その世界は「私」と「私以外」で構成されます。心理学でいうところの、エゴの世界です。

 

13世紀の禅僧 道元の書いた『正法眼蔵』の初めにもこのような有名な言葉があります。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(「現成公案」)

ー仏道(真実の道)を学ぶというのは、自己を習い知ることである。自己を習い知るとは、自己を完全に忘れ去ることである。自己を忘れ去るとは、自己が空(から)になって、空になった自己が万法によって保証されることだ。万法に保証されるというのは、自己の身心も、他己の身心も脱落(とつらく)せしめ、空になって、それが法によって保持されることである。

水野弥穂子校注『正法眼蔵』(岩波文庫)

 

エゴ(自己)を忘れ去るための方法として、仏教に限らず精神世界の指導者たちも同様に、例えばラムダスはBE HERE NOW (今ここ)、エックハルト・トールはThe Power of Now (今この瞬間の力)を強調します。

 

例えば自身も長年重度のうつ病で苦しんだエックハルト・トールは、「ただ在る」という感覚に至り、エゴの悪魔のささやきをストップさせることで深い喜びの状態を体験しました。鬱とは心の怒りが自分に向かった状態です。私たちの意識を過去や未来ではなく、今ここに向ける。存在や生きていることに意味や目的を見出そうともせず、ただ在るという感覚のみを感じる。そこから解放や癒しが始まるのです。

 

私は瞑想してきましたが、「ただ在る」という感覚はわかったような、正直わからないような感じでした。どうしても頭でっかちになってしまうのです。でも一度だけそれを体験したことがあります。それは、バークレーで友達になったヒーラーのエミリオがやってくれたエネルギーヒーリングによって。それは日本に帰国する1か月ほど前の体験でした。「こんな状態で日本に帰るのが怖い」と告白した私が大いなる意識と繋がるようにと、祈りを込めて施してくれたのです。

 

エミリオはペールのクアンデロ(男性祈祷師)の末裔。コンブチャ2本で何十回とヒーリングをしてくれた恩人です。あるとき両手がどんどん大きくなったような肉体感覚から始まって、「無」に。これは全部後付けの説明なので、そのときの感覚とは大きく異なるのですが。本当になんにもないんです。痛いも温かいも。嬉しいも悲しいも。快も不快も。感じるも感じないも。でも熟睡している状態とは違って、意識はあるんです。

 

あのときには何も感じていなかったからこれは後付けなんですが、それは完全なる解放でした。圧倒的な安心感というか。もちろんそのときは何もないから安心感すらも無いので、これは後付けの解釈に過ぎないのかもしれません。ちょっと怖いけど、ものすごいホッとするような。時間という概念もないんです。本当に何も無いんです。でも意識はあるんです。

 

ヒーリングが終わった後に「これがただ在る」ということなのか、とボー然としました。でも、これが本来の状態なのだろうなとも腑に落ちました。これは瞑想や人生体験による深い悟りなど自力で至ったものではないので、後にも先にも一回こっきりの体験です。そこでは「私」という感覚がありませんでした。だから「私」と「私以外」という区別性も無いんです。圧倒的な平和なんです。そこで今伝えたかったことは、

 

今ここで、あなたと在ることに本当にありがとう。

どうかお大事になさってくださいね。