アセンションという言葉もありますが、意識の次元上昇っていったい何を指すのでしょうか? その鍵になるのは、視点。学者、僧侶、経営者の視点を参考にお話ししたいと思います。
意識の次元上昇はどんな状態で、何を指すのか?
次元上昇について八木龍平さんは著書『成功している人は、なぜ神社に行くのか?』で、「主観の客観化」だといいます。
主観とは、自分の好みや感じ方のこと。
対して客観とは、客観視とか客観的という言葉に表わされるように、
特定の立場にとらわれず物事を見たり考えたりすることです。
つまり主観はクローズアップの目線、客観は全体像を見る俯瞰した目線のことですね。
次元上昇とは、主観の客観化。
では「主観の客観化」とはどういうことでしょうか?
彼は、本書の中で大変面白い例をあげて説明されています。
キレイ系、カワイイ系という言葉がありますよね。
あの人はキレイで、この服はカワイイ系だなというのは主観です。
そんな客観をイラストレーターの柴崎マイさんという方は、「キレイは直線、カワイイは曲線」と客観化されているというのです。具体的には、女性のイラストを描くときに、キレイ系キャラはファッションもメイクも直線を多くし、カワイイ系キャラは曲線を多くされるのだとか。
ズームアウトの視点ですね。
そんな主観の客観化が究極的に進んで、主観が消失するという考えがあります。
たとえばその一例は、仏教の縁起という教え。
縁起では、どんな出来事も、私という存在も、関係性によって起こっていると考えます。
有名な「般若心経」というお経ではそれを空(くう)という概念で説きます。見たり聞いたり味わっているという感覚すらも一時的なもので永遠ではなく、固有の体験とは言えないというのです。
例えば、あなたという人間が存在しています。
今ここにあなたが存在するために、命の営みとしては、父、母、父方の祖父母、母方の祖父母…という存在がエンドレスに無数につづくことで支えています。
さらに、肉体は食べた食物からできています。あれこれ考える脳もアミノ酸や糖分が無ければ働きません。
物体のない思想もまた、教育や読んだ本、目にしたニュースや情報、誰かとの語らいなどから形作られています。
つまり、私という存在は、私ではないさまざまなものが重なり合って、あるタイミングに出現した表れ。固有の存在として独立してはあり得ないのです。
それをinter-being(相互存在)という美しい造語にしたのがティク・ナット・ハンというお坊さんです。
彼は世界にマインドフルネスを広めた人です。
私が彼のマインドフルネスリトリートに参加した理由の一つは、一本のYouTube動画でした。
それはあるリトリートで催されたQ&Aを撮影したものです。
絶望しきった一人の女性がティク・ナット・ハン禅師に相談するんです。
「他の人には存在する意味や価値があると思えるけど、自分のことはどうしてもそう思えない」と。
それに対して彼はこう答えます。
「私は、私以外のすべてからできています。
あなたは、あなた以外のすべてからできています。
あなたがあなたのことを嫌うというのは、私のことを嫌うことと同じなんですよ」。
その言葉を聞いて、仏頂面だった彼女は笑顔になるんです。素敵なシーンでした。
次元上昇の先にあるのは、主観と客観を超えた非二元の境地 ノン・デュアリティやワンネスだと語られますよね。
参考:プルシャとプラクリティ
八木龍平さんは、それは究極の境地ではないといいます。
つまりは究極の次元上昇は、すべての次元を選択する自由を手に入れることだと。
確かにティク・ナット・ハン禅師は、悟りの世界と私がいる世界を行き来することで、私が理解できる言語で悟りの世界についてお話ししてくれました。
これは仏教やスピリチュアル世界に限ったことではありません。
たとえば昨日夢中で読んだ『ロッテを創った男 重光武雄論』。在日の彼がどんどんと頭角を表して、世界的な経営者なっていく様子が描かれます。寡黙で実直な彼の人生はまさに壮絶。最後は実子(経営陣)に裏切られてしまうんですね。韓国ドラマと大河ドラマを足して割ったような、深みとエンターテインメント性を兼ね備えたストーリーでした。
思わず、話が逸れてしまいました。
もとい、彼のような経営者もまた、主観、客観、それらを超えた次元を行き来しながらマーケットをつかんでいるのでしょう。
参考:自然なあなたが一番美しい。ドス黒い感情やダメな視点にも価値がある! 不安、怒りを「書いて」陽転させる方法。
つまり
主観のみ、
客観のみ、
主観中心世界の客観、
客観中心世界の主観、
そのどれを選んでもいいし、選ばなくてもいい。
と主観と客観、あるいはそれらを超えた世界というすべての次元を行き来できる状態。
とらわれがなく、どこまでも自由な状態です。
どの次元も選べるという状態が、究極の次元上昇なのでしょう。
言い換えれば、ハイヤーセルフとつながったり、エゴの自分とつながったりを自由に行き来するような状態のことです。
参考:ハイヤーセルフと繋がる方法とは? 問題を解決する、自分を超えた答えのダウンロード法
では、それを阻むとらわれとはなんでしょうか?
そのとらわれは、私たちの心の中にあります。
その思いを言語化すれば、「ねば」とか「べき」という言葉になるでしょう。
でもそんな思いは、手放すことも手放さないことも自分で自由に選べます。
どちらでもいいんです。
こっちの方が正しいからと、誰かに強要されるものでもありません。
だからと現実を放棄してもいいという話がしたいわけではありません。
どちらでもよいけれど、自分でそれを選んでいるという感覚を持つことが、自由を取り戻すことになるのではと思うんです。
精神科医のヴィクトール・フランクル。
彼は、アウシュヴィッツ強制収容所から奇跡的に生還しました。その自伝『夜と霧 』には、彼が実際に体験した凄惨たる収容所の日々が綴られています。
そこで彼が至ったのは、どんなときでもどんな状態でも人生には意味があると腑に落ちたという境地。
無作為に殺される収容所のような、あらゆる自由が奪われたような過酷な環境でもたったひとつ自由が残されているという真理です。
彼の言葉では、以下です。
人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。
—『夜と霧 』(みすず書房)より
合わせて、精神科医の神谷美恵子さんの言葉をお伝えさせてください。
「生きがい」とは
それぞれのひとの内奥にあるほんとうの自分にぴったりしたもの、その自分のままの表現であるものでなくてはならない
―『生きがいについて――神谷美恵子コレクション』(みすず書房)より
あなたの今日は、それでいいですか?
その感じ方、そのやりとり、その過ごし方を自分で選んでいるという感覚がありますか?
どの瞬間もあなたにとって良い時間を選び、お過ごしください。
あなたにはその価値があって、そうできる力もあります。