目覚めとは眠りから目を覚ますこと。スピリチュアルな目覚めとは、本当の自分(真我)に戻ることです。眠りは、映画『マトリックス』の世界に生きるようなもの。この映画は、私たちの心(プログラミング)が作り上げたマトリックス(幻想)から目覚めるという話です。そして『マトリックス』の覚醒と、目覚めた人という意味のブッダが説く、仏教の悟りには深い関係があります。
目次
スピリチュアルな目覚めとは、本当の自分に戻ること
目覚めというと、一番に思い浮かぶのが、朝に目を覚ますことですね。
つまり、眠りから、覚醒すること。
そして、スピリチュアルな意味での目覚めとは、本当の自分に戻ること。
では、本当の自分とはなんでしょうか?
本当の自分(真我)とはどんな状態?
たとえば、インドのサーンキヤ哲学では、本当の自分のことを真我(プルシャ、アートマン)と呼びます。
サーンキヤ哲学では、私たちは、大きく2つの存在からなるというんですね。
ひとつは、私たちが、「私」、「自分」と思っている存在(プラクリティ、根本原質)。
そしてもうひとつが、真我(プルシャ)です。
まず、私たちが「自分」と感じる「私」つまり、プラクリティについて、お話ししますね。
これは、”我思う、ゆえに我あり”と、あれこれと感じたり、行動したりしている自分のことです。
プラクリティには、私たちの感情に波があったり、私たちの細胞が成長したり老化するように、絶えず移り変わるという性質を持ちます。
そして、もうひとつの存在、真我(プルシャ)は、感じたり、行動している自分を、静かに見つめる存在です。
変化変質していくプラクリティとは違い、波のない静かな湖のように、無展開のままです。
思考したり、感情や理性を働かせることはありません。
けれども、冷たく突き放す姿勢でもありません。
解脱した状態にあります。
観音菩薩にも使われる、観察の”観る”という漢字が使われる、観照者の立場です。
それは、ただ観る(見守る)という存在。
参考:プルシャとプラクリティ
つまり、本当の自分は、真我(観照者)であり、今の自分は、真我が見るスクリーンの中で変化変質する存在だったことを思い出すことが、目覚めということ。
右往左往したり、一喜一憂して夢中になっていたのは、スクリーンにうつる映画のお話だったと思い出し、観照者の席に戻るということですね。
より詳しく知りたい方は:『いまに生きるインドの叡智―ヨーガの源流から現代の聖者まで』のP101-108に詳しく説明されています。P105の図解もわかりやすく、丁寧です。
もっとわかりやすく言い換えると、「もうダメだ」と絶望していたり、「人生最高の幸せ!」と飛び上がりそうになっている自分のことを、一歩引いた目で見る視点に戻るということですね。
真我(プルシャ)は、現実世界を動かすことはできません。ただ観るという存在です。
あくまでも経験を変化させたり、生み出すのは、プラクリティとしての私です。
つまり、いわゆる完全に解脱した(ずっと真我)状態だと、変化は起こせません。
そもそも「私」と「あなた」という区別性のない、宇宙意識と同一化されているので、「変えなきゃ」とか「成長しなきゃ」という心も働かないわけです。
そこで、私たちの人生を生きるという意味では、右往左往しながらも、真我(プルシャ)の視点を取り戻しつつ、私が作り上げる世界のバランスを取り戻すこと。それが、現実的な、スピリチュアルな意味での、私たちの目覚めとなります。
ハイヤーセルフとつながるとも言えるでしょう。
参考:ハイヤーセルフと繋がる方法とは? 問題を解決する、自分を超えた答えのダウンロード法
映画『マトリックス』の眠りと覚醒
私は、そんな意識の眠りと目覚めの話題から、有名な映画『マトリックス』が思い浮かぶんです。
『マトリックス』は、コンピューターに送り込まれたデータ(マトリックス)でできた仮想現実の中で、人間が暮らす近未来の物語です。
人間たちは、コンピューターの動力源としてのみ生かされています。
私たちが野菜や動物を育てて食し、命をつなぐように、映画の中で人間は、コンピューターを動かすエネルギー源として家畜されているんです。
でも、ほとんどの人たちがそれに気づいていない。
主人公ネオが現実だと感じている、住んでいる家も、プログラマーとして働くオフィスも、ちょっと面倒な人間関係も、昨日食べた食事も何もかも、実は、存在していません。
機械(AI)に見せられている夢にすぎません。
つまり、眠りの中にいるんですね。
すべて脳に送り込まれたコンピューターのデータにすぎず、脳が処理して現実だと錯覚する、仮想現実なんです。
『マトリックス』でいう眠りとは、みんなそれぞれに仮想現実の中にいながら、現実を生きていると錯覚しているということです。
AIが生み出す夢を見ている主人公を初め、多くの人間たちにとっては、その仮想現実は、肉体を動かさず、物体も伴わないけれど、すごくリアルに”体感”できる世界なんです。
体験データとしてマトリックスからの電気信号が伝わって、脳が痛みや音、味わい、風景を実体化。
完全に、自分が心と体を使って体験しているような気分になっているんですね。
投入型のゲーム中のハイな気分や、ドラマでどっぷり感情を移入して号泣している感じの、さらにずっと上をいく感じです。
これがもしも現実だった場合に、自分は、夢と気づくことができるのかな….。
そんなふうに、ゾッとするストーリーですよね。
結局、ネオは、機械の作り出した夢の世界に留まるのではなく、赤い薬を飲んで、夢から抜け出して現実の世界に戻ることを選びます。
覚醒の道は、決して平坦ではなく、いばらの道ではあると知りながらも….。
仮想現実は、私たちの心が生み出すもの
映画『マトリックス』は近未来のSF世界の話ですが、仏教では、私たちは心の作用で仮想現実を生きていると言います。
それが、私たちの苦しみの原因で、それに気づくこと、自由になること(解脱や悟り)が、苦しみから自由になる方法だと説くんですね。
仏教心理学が語る私たちの心の仕組み
ではどのようにして、私たちの心が仮想現実を創造しているというのでしょうか。
そこでまず仏教が捉える私たちの心の仕組みについてお話ししたいと思います。
マキワリラジオで聴くこともできます
私たちの現実を形づくる、五蘊(ごうん)とは?
仏教では、わたしたちの現実は「五蘊(ごうん)」と呼ばれる、5つの構成要素からなると考えられています。
「色(しき)」「受(じゅ)」「想(そう)」「行(ぎょう)」「識(しき)」という5種類です。
「色(しき)」は、色、形をもったすべての物質・物体のこと。
「受(じゅ)」は、「色」を感じとること。
「想(そう)」は、感じとったものを、「受」よりも具体的に表象する(心に思い浮かべる)こと。
「行(ぎょう)」は、心の働きのこと。「受」や「想」から、心が動機(行動したり、決断したり)づけられること。
「識(しき)」は、「受」と「想」から「行」が加わった現実や対象について、認識すること。
というように、わたしたちはこの集合体で出来ていると考えられています。
そして、心の働きでとらえた物質や物体を「こういうものだ」という認識によって変質させ、それぞれの現実を自分で作りあげています。
もっと具体的にお話ししましょう。
たとえば、雨は、日照り続きだった農家の人には、「嬉しい出来事」でも、新品の革靴でお出かけした人には、「困った出来事」となるでしょう。
というように、それぞれの人の、「受」「想」「行」により、「識」が変わるんですね。
同じものごとを体験しても、その認識は人によって違います。
そして、認識が違えば、現実の体験が変わります。
つまり、現実とは絶対ではなく、仮の姿。それぞれの”仮想現実”を生きていると言えるのです。
仏教の「目覚め」、「悟り」とは?
では私たちそれぞれが仮想現実を生きているとして、仏教における「目覚め」、つまり「悟り」とはどういう状態を指すのでしょうか?
仏教で一番有名なお経『般若心経』では、私たち(を形づくる五蘊)の本質は「空(くう)」である。
つねに変化し、関係性の中でのみ成立している。
「これは絶対」と信じる心を実体のない錯覚だと観察し、心と体の芯から理解することを、悟りだと説いています。
こんなにリアルに感じて、私たちの心や行動、現実を変えてしまうほどの力を持つ私たちの認識や判断。
それらがすべて、実体がないのが本質だと、腑に落とすことが悟りだというんですね。
私たちの認識や判断はすべて「空」であると、腹の底から理解することが、苦しみから自由になる方法なんだと説くんです。
すごく昔のお経なのに、映画『マトリックス』のように、とても斬新な内容を語っていますよね。
そして、その教えを実際に体感し腑に落とす方法として、目覚めた人ブッダが生み出した手法が、ヴィパッサナー瞑想という観想法です。
生も死もない。亡き父も、いたるところに存在
よくよく冷静に考えれば、確かに、「温かい」「嬉しい」「悲しい」「痛い」という、とってもリアルに見える感情も永遠に続くものではありません。
また、般若心経は、起こることも消滅することもない。汚れることも清らかになることもない。
減ることも増えることもない。
と説きます。
絶対的で決定的に見える生死でさえ、常に形を変える現象のひとつと言うんですね。
そのことは、今年の初めに亡くした父のことで、深く痛感しました。
もちろん、とても悲しい出来事で、今も父がいないことを思うと、胸がギュッと締めつけられます。
その一方で、現実をニュートラルに見れば、肉体を持ち、声を発し、触れることができる父という存在は無くなりましたが、
物理的には、お骨という物質が存在しています。
その骨が朽ち果てても、やがて土に還り、新しい命を育むでしょう。
また、父から派生した私が今ここに存在するように、兄や、兄の息子たちも元気に学校に通っています。
命の環は、つづくのです。
父が一度も存在しなかった場合にはありえなかった、母と私という関係性も生じています。
さらに、我が家の老猫からも、父の存在を感じることがあります。
16歳の彼女は、食べすぎては吐いて体の調子を悪くするんですね。
そこで、キャットフードは数粒ずつを何回にも分けてあげる必要があります。
「もっとほしい」と何度も何度もキャットフードをねだる彼女ですが、彼女の要求通りにすると、体を壊してしまいます。
そこで、生前の父は「ちょっと休憩な」と、彼女をなだめていたんです。
そして、彼女は「休憩」という言葉を覚えたのでしょう。
父が亡くなった今でも、「休憩」と言われると、彼女はご飯をねだるのをやめるのです。
彼女の中で、「休憩」という言葉を通して、父が生き続けているんですね。
つまり、捉え方次第で、彼の存在は、ゼロにも永遠にもなるんです。
覚醒して生きる
すべての現実は自分の心が作り出している。
そもそもはすべて、”仮想”である。
であれば、どんな現実を創造したいのか、創造したくないのか。
真我(観照者)の自分を思いだしながら、プラクリティの自分が認識し、行動する。
無意識のプログラミングを外して、不要な思考の習慣に気づくことが、目覚めであり、悟りの始まりなのです。
参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学