朝起きると、朝食中の父が新聞を読みながらクスクスと笑っていました。日経新聞の最終面に掲載されていた、漫画家で文筆家の東海林さだおさんの「サンマ大好き」というエッセイを読みながら。
東海林さだおさんの著書「丸かじり」シリーズは我が家で大絶賛されています。父と母はハマってほぼ完読。「80歳すぎても髪を黒く染められる人は、やっぱり違う」と感心しています。
日経新聞だからほかの記事の見出しといえば、「医薬敗戦、バイオ出遅れ」とか「迫られる中国リスク分散」とか。
そんななかでの「サンマ大好き」。
うちの家族は、それを日経に書いちゃう「東海林さだおさん大好き」。
さらには東海林さだおさんに執筆依頼して、「医薬敗戦、バイオ出遅れ」という見出し記事や、アマゾン創業者ジェフ・ベゾスの新刊『Invent & Wander』の広告が大きく掲載される新聞に、「サンマ大好き」を載せた、新聞社の担当さんも好き。
さてどんなことが書かれていたのか、ちょっと気になりませんか。
以下本文を一部抜粋しました。
東海林さんは、日本人にとってサンマはアジやイワシと同じ大衆魚といわれてグループをなし人気だと一説論じた後、こんなふうに書かれています。
AKB48などと同類のアイドルグループ。グループのセンターはもちろんサンマ。なんといっても人気は一番。
タレントがその名前にあやかろうとするほど。
明石家さんま。
明石家さんまはいるが、柳家いわしはいないし古今亭あじもいない。
日本人が誰もがサンマが好きなので当然エコヒイキする。
寿司屋では独特の大きな湯飲み茶碗でお茶がでる。
その湯飲み茶碗の壁面には魚偏の文字がびっしり。
鮎、鮭、鮪、鯉、鰯、鯵……。
ここで気づくのはどの魚もたった1文字。
なのにサンマはどうか。
秋刀魚、3文字。
他の魚は全員1文字で我慢しているのに悠々3文字。
これをエコヒイキといわずして何がエコヒイキか。
―日経新聞2021年12月12日付朝刊より
だいぶん強引なロジックですね。
でもぷっと笑っていい気分、味覚に込められたアイロニーは秀逸で「そうだよなぁ」と納得させられるものがあります。
で、これ日経新聞の記事ですよ。
「あとの記事はひとつもわからんかったけど、これは面白かった。やっぱり東海林さんって、すごいなー」と父。
「そうだねー」と娘の私。
我が家の経済リテラシーは大丈夫かしら?という話はさておき。
私は朝食を終えていまや台所で贈答用のバナナブレッドを焼いていますが、父はまだ食卓で皿とにらめっこしています。
「嫌いなんだなー」と、トーストに添えられたブロッコリーをフォークでつつきながら。
「東海林さだおさんだったら、『桶狭間の戦いは、2時間。太平洋戦争は4年。応仁の乱は11年間。僕のブロッコリーとの戦いは、いまだに終わらない』なんてなるのかなぁ」と私。
「うーん、食べられないんだなー」と父。
お互いに歳をとっても、父は父であり、親は親であるままです。
でもブロッコリーが食べられず食卓に居残る父の様子から、小学校のときに牛乳が飲めなくて掃除時間になっても泣きながら持て余している子の姿が垣間見えました。
で、父のブロッコリーとの戦いはドレッシングを渡した結果、1時間強で無事に終わりを遂げました。
そんな顛末を母に話すと、
「そんなふうに思っていたら結局栄養にならないから、残せばいいのに」と、バッサリ。
ナポレオン・ヒルも言ってた、『思考は現実化する』ですねぇ。
そういえば本に『ホ・オポノポノ』のヒューレン博士のこんな言葉もありました。
博士にとっては、心を浄化するための決まった食べ物なんてなくて、ジャンクフードのハンバーガーも葉巻も大好き。
「危険なのは食べ物じゃなくって、その食べ物についてどう考えているかっていうことです」と語っていらっしゃったんです(『Zero Limits: The Secret Hawaiian System for Wealth, Health, Peace, and More』より)。
渡辺和子さんもまた別の言葉で同じようなことを
「時間の使い方は生命の使い方。世に雑用はありません。用を雑にしたとき雑用が生まれるのです」と、綴られていました(掲載本、失念)。
これらにすべてに共通することは、
なにを食べたり、なにをしたりということよりも、
意識の向ける方向性(エネルギーの向け方)が原因となり、体の栄養あるいは心の栄養という結果(目に見える現象)が現れるということ。
つまり見えない思考の世界での生き方が、見える物質的な世界に現実化するということです。
それはカルマの成り立ちも同じ。
カルマとは、なにをやったかやらなかったかという行為の有無よりも、どういう意図でそれをやったかに付随して形づくられると言われます。
参考:カルマとは何か?人生における3つの現れ方、カルマを解消する方法とは
もっと具体的にいいます。
これは、私がヴィパッサナー瞑想合宿にいったとき、S.N.ゴエンカ師がブッダのたとえ話だとお話しされたことです。
同じように他人のお腹を切って殺めた人がふたりいます。
ひとりは「患者を救おう」として、その患者さんの下腹部をメスで切ってオペをした医者。彼(女)の思いもむなしく、患者さんは亡くなってしまいました。
もうひとりは「お金を奪おう」として、ある人の下腹部をナイフで刺して殺してしまった強盗です。
この二人のとった行為(人のお腹を刺した)と目に見える結果(その人を殺めた)は同じです。でも、意識の向け方(救おうとしたor傷つけようとした)が違うので、それぞれ背負うカルマはまったく違うものになるのだとか。
カルマは目には見えませんが、それが影響して、やがて見える物質的な世界の現象として現れます。
これらの余談より、ブロッコリーと父の話に戻ります。
「挑んでくるものには向かわねばならないという、昭和の男のメンツみたいなものもあるんじゃないですかね」と父を代弁してみます。
「たぶんお父さん、私のことがただ怖いのよ。残すと怒られそうだから。そんなことで怒ったりしないのにねぇ」と母。
その後、母とふたりでいかにブロッコリーをニンニクと鷹の爪でサッと炒めたらおいしいかとブロッコリー賛美に花が咲きました。
でも嫌いな人にとってはそんな口福は、まったく違う体験になるんですよね。
そこでじゃあ「おいしい」とか「栄養になる」と思えないなら、どうしたらいいでしょうか。
ひとつには意識の方向性を味という感覚ではなく、
料理をつくってくれた母とか、ブロッコリーを育ててくれた農家の方への「ありがたいなぁ」という心の感覚へとシフトさせるという方法があります。
それが難しいなら、
最初から「ブロッコリーは食べない」と断言して、好きな人(母とか私)に割り振ってしまうというのも手です。モヤモヤするものは早めに返事して止めるということです。
比喩的にいえば、給食を残して怒られる時代はもう終わったわけだから。
それは、あるものに意識を向けて感謝し、自分自身でいることを敬うということです。
このふたつはなかなか難しいことです。
とはいえ食べ物との関係性に限らず、人間関係、仕事などあらゆることに関わる大切なことなので、わたし自身にも日々言い聞かせていることでもあります。
参考:ハイヤーセルフの眼差し、あなたと私の集合的無意識を同時に癒す「セルフ・コンパッション」の力とは?
私たちは自分に対して総じて当たりが厳しいです。
気づけば、頭の中でダメ出しをしている。
それに気づいたら、
自分のなかに神棚があるように大事に自分のことを扱うようにして、
もっと「大好き」なものに純粋に向かう自分を許すことができれば、朝に目覚めた瞬間に絶望を感じるなんていうことも無くなっていくでしょう。
参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。
私たちの命は輝き出すのではないでしょうか。
しかしブロッコリーが嫌いって、絵本の主人公の子みたいで可愛いですね。
ちなみに私は、らっきょうと奈良漬けが苦手です。
好きなものと嫌いなものがあるという感覚。
それが人による個人差、ニュアンス、そしてスタイルを形づくる。
さらに評論家の外山滋比古さんは「スタイルとは人柄である」とおっしゃいました。
そんな私たちの好きや嫌いという感覚から生まれ、自分の頭で考えて試行錯誤の末に到達するスタイル。
それが大いなるものを源としながら分かち、私たちが存在する理由なんじゃないかなと思います。
もっと大事にしていいんだと思います。