チベット死の書、聖書、瞑想マスターから学ぶ、幸せな死にかたのヒント

すべての恐れの大もとは、死への恐怖。

お金が無くなること、愛されないこと、仕事を失うこと、病気になること、誰かを失うこと、認められないこと。すべて怖いことです。そしてこれらの大もとになるのは、死への恐怖です。つまりそこから少し自由になれば、わたしたちの生き方や人生のカタチも変わります。

亡くなるタイミングがいつなのかはわかりません。順番だって不平等で、親より子や孫が先に逝く場合もあります。死にかただって、戦争や暴動で亡くなる人、殺害される人、交通事故や卒中で突然亡くなる人、長患いで苦しむ人、老衰で穏やかに逝く人、飢え死にする人などさまざまで基本的に選べません。

一度も体験したことがない死を恐れるのはおかしな話です。でも知らないことがさらに恐怖をあおります。死に向かう前に苦しむ時間だってとても恐ろしい。人は自分がコントロールできないこと、把握できないことを怖いと思うものです。それはサバイバル本能の一種でもあります。

自殺や安楽死で自らの命を断つことで、死の恐怖から逃れコントロールを取り戻そうとする人もいます。私たちの世界で自死は論争になりますが、心(感情や考え)や肉体を超えた魂レベルでは、そこに良いも悪いもありません。

死は、魂が設定した学びを終えたときに訪れる。

ただ、自死の体験も含めて魂がそれを設定してきた場合を除き、魂の学びを終える前に死で魂が心と肉体から切り離された場合、体験されなかった学びはどのみち何らかの形で持ち越されることになります。それは逃れられない万物の摂理で、意識を拡大と成長へと向かわせる宇宙法則(ダルマ)でもあります。

そのひとつの解釈に、輪廻転生があります。

参考:カルマとは何か?人生における3つの現れ方、カルマを解消する方法とは

それは死という避けられない事実から目を背けるためのものでしょうか? いいえ、むしろ不死に執着せず、「今どう生きるのか」に目を向けるためのものです。

例えばヒンズーの聖典によれば、人間が何度も生まれ変わる目的は、いくたびもの生涯を通じて、魂の持つ無限の性質を物質世界でできるだけ豊かに表現すること。そして物質に対する魂の力をより完全に現すための方法を、心と体で経験して学ぶためだそうです(※)。

(※)あるヨギの自叙伝 スティーブ・ジョブズが自身のiPadに唯一入れていた本です。

産まれるときは一様に苦しいが、死にかたには個人差があるのは何故?

死に対し誕生について考えたとき、赤ちゃんは産まれるとき、みんな一様に大変な思いをすると言います。お母さんの子宮が収縮すると一時的に血流が減って、赤ちゃんはとても苦しい状態になります。そして命がけで真っ暗で狭い産道を進みます。

産まれるときはみんな苦しくて、でも死にかたはバラバラ。そして最終的にはみんな平等に死ぬ。小さい頃から、私はそれが不思議でなりませんでした。

どうして死にかたには大きく個人差があるんだろうと。

東洋宗教も西洋宗教でも、呼吸は肉体と魂をつなぐ霊的な鎖。

脈が無くなって、呼吸も止まると、肉体はエネルギーを吹き込まれなくなり、拡大と成長という意識から切り離されます。

つまり呼吸は肉体と魂を結びつける霊的な鎖のようなものです。呼吸を使った瞑想や坐禅といえば仏教がイメージされますが、キリスト教やユダヤ教でも呼吸は肉体と魂をつなぐものとみなされました。例えば、旧約聖書の創世記には

「主なる神は、土のちりで人をつくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生ける魂となった」(創世記2章7節)

とあります。

死を高い霊性に最も近づくときだと受け入れるチベット人たち。

仏教では、人が亡くなって49日の間、魂は肉体を離れて、ずっと軽やかな意識そのものの状態でこの世界に存在すると考えられています。肉体が無いので痛みも心地よさもなく、抵抗も執着もなく穏やかになります。そしてもっとも根源的な源のエネルギー、つまり「これを体験したい」と生まれてきた魂の意志に触れることができます。

そこでチベット人にとって、死は「仏の意識」(菩提)に最も近づけるチャンスです。死について積極的に話題にするし、死の宣告も動じることなく受け入れるそうです(※)。

私がアメリカの禅センターで暮らしていたとき、チベットの高僧たちは「死の瞑想」を実践し、最期のひと呼吸まで感じることができ、死ぬタイミングを自分で決められると聞きました。

(※) NHKスペシャル チベット死者の書 より

悟りの状態の死 マハサマディとはどんな状態?

そんな悟りの状態で迎える死は、ヨガの世界でもマハサマディ(ヨギが意識的に肉体を脱ぎ捨てること)と呼ばれて祝福されています。

一体それはどういった状態なのでしょう?

生まれたときよりも自我(“私”という切り離された感覚)が発達した状態で亡くなるわけだから、何らかの形で意識の力を利用して、幸せな死にかたを取り戻す方法があるはずです。それは聖者や覚者にしか体験できないものなのでしょうか。




S.N.ゴエンカ氏の母。末期肝臓癌の瞑想マスターの穏やかな最期の物語。

ヴィパッサナー瞑想の指導者S.N.ゴエンカ氏の育ての母の最期の物語は、私たちがどのように穏やかな死を迎えられるのかというヒントを垣間見せてくれます。

鍵を握るのは、呼吸と観察です。

↑ここで紹介したS.N.ゴエンカ氏のお母さまの死の物語に加えて、ゴエンカ氏自身の死のエピソード、他にもヴィパッサナー実践者たちの「死にかた」が集められた素晴らしい随筆集です。

ゴエンカ氏の育ての母は、熱心なヴィパッサナー瞑想の実践者でした。彼女は70歳のときに、末期の肝臓癌と診断されます。

その痛みはどんな睡眠薬を処方されても、眠れないほど壮絶なものでした。まぶたは重くなっても、意識はずっと目覚めたまま。何日も一睡もできない状態が続き、担当医は深く心配します。彼女はそれについて自分から話題にすることはありませんでした。

あるとき痛みについて尋ねられて、「陣痛の痛みと同じね。違うのは、痛みの間断がないこと」と穏やかに答えられたそうです。

隣人に、偶然同い年で同じ肝臓癌を患った女性がいました。彼女は強い痛みに苦しみ、嘆き続け、誰もそれを慰めることができませんでした。けれどもゴエンカ氏のお母さまは、いつもただ笑顔を浮かべていました。

彼女を目覚めさせていたのは痛みではなく、感覚への気づき、ヴィパッサナーでした。

彼女は亡くなる夜も、家族と一緒に瞑想していました。

参考:幸せへスムーズに移行するための不滅の原則があった!望む現実を創造するカギ、“赦し”について徹底解説します。

呼吸、感覚を感じて、自分の死期を正確に知る。

夜の23時ぐらいに、「もう遅いわ。みんな寝なさい」と彼女は言いました。夜中に看護師が彼女の脈を計りに行ったとき、手首に脈がありませんでした。

彼女は死期が近いと不安になり、「お子様がたを起こしましょうか?」と尋ねました。ゴエンカ氏のお母さまは「いいえ、いいえ」と答えて、「まだです。ときが来たらお知らせします」と言いました。そして午前3時になり、「時間です。家族たちを起こしてください。逝かなければ」と看護師に伝えました。

彼女はゴエンカ氏をみて「座りたい」と言いました。それに対して担当医がいいます。「数分後に彼女は亡くなります。穏やかに逝かせてあげてください。体を動かすと、その死は痛みを伴うものになるでしょう。もうすでに苦しまれているのです。そのままにしてあげてください」と。

その言葉を聞いて、彼女は「いいえ。座らせて」とゴエンカ氏に繰り返しました。そこで彼は、枕をいくつか彼女の背中におきました。ゴエンカ氏のお母さまは、スッと体を持ち上げ、足を組んでまっすぐ瞑想の姿勢をとってみんなを見つめました。

瞑想しながら、輝くように亡くなった。

「感覚を感じる…。アニッチャ(諸行無常)を感じる…」と言って、30分間瞑想をした後に亡くなりました。彼女の顔は生前、いつも輝いていました。死しても、その顔は輝いていたそうです。

昨日素晴らしいフラワーエッセンスをサプライズで贈っていただきました。その処方メッセージに、偶然にもこんなことが書いてありました。

永遠の魂であるという真実を見極め、恐れる必要は何もないということ。それを理解するサポートをしてくれます。

シンクロニシティ(共時性。つながりのある出来事が偶然のように、同時に起きること)です。

参考:シンクロニシティ(共時性)を起こすコツ。意味のある偶然をつかんで幸運体質になる方法

幸せな人生なくして、幸せな死は迎えられない。

幸せな人生なくして、幸せな死は迎えられない。S.N.ゴエンカ氏はいいます。

人が恐怖心を感じるのは、実は外側の現実のせいではなく、自分自身の内面にある影の部分に直面する心の準備がまだできていないせいです。生きているうちにそれと向き合って感情レベルの統合を果たせば(自分の内面にある影の部分を受け容れること)、癒しの生の延長としての癒しの死が迎えられるのかもしれません。

参考嫌いな自分を赦せば、愛が叶う。投影を外し、人間関係のモヤモヤを一掃する心理学。

どんなに飽きっぽい私でも、これを読むあなたもまた生まれてからずっとやり続けていることがあります。それは呼吸です。

私たちの魂と肉体をつなぐ聖なる鎖である呼吸を感じて、自分を感じる。自分の中の神性に戻る。幸福のサポーターは、そんな穏やかな呼吸です。最期の一瞬まで呼吸とともに生き切ることで、幸せな人生と幸せな死の両方が叶うのかもしれません。

参考:父の抗がん剤治療が始まった。