悩みの中に答えがある。仏教とスピリチュアル世界からみる、自由になる2ステップ。

ブッダが悟りをひらいたとされるヴィパッサナー瞑想は、インドの最も古い瞑想です。この瞑想では、痛みや苦しみの本質を知り、そこに安らぎや自由があるということ。つまり悩みの中に答えがあると教えますが、それはヴィパッサナー瞑想に限らず、チャネリングによるスピリチュアル本の古典『バーソロミューや禅の教えでも語られるところです。今回は、仏教とスピリチュアル世界という一見異なる教えが共通して語る、自由になる2ステップについてお話ししたいと思います。

インドの最も古い瞑想、ヴィパッサナー瞑想。痛みや苦しみの中に自由がある。

瞑想にはさまざまな手法がありますが、なかでもヴィパッサナー瞑想は有名でしょう。インドの最も古い瞑想で、ブッダが悟りをひらいた観想だとも言われています。世界中のヴィパッサナー瞑想センターでは、10日間で瞑想の基本を学ぶことができます。宿泊費や食費を含んだ参加費用は、受けた人が自分で決められるとあり、誰でも等しく瞑想を学ぶ機会が開かれています。

私は何度かここで生徒として瞑想したり、サーバー(奉仕者)として合宿のお手伝いをさせていただいたりしましたが、そこで教わったのは、痛みや苦しみの中に安らぎや自由があるということ。言い換えれば、悩みの中に答えがあるというパラドックスです。

呼吸一点に集中し、心の落ち着きを取り戻すサマタ瞑想。

10日間の合宿では、最初に呼吸に集中する瞑想を教わります。これは、サマタ瞑想を呼ばれます。その効果は、集中力が増すこと。また考えでいっぱいの頭の中をスッキリさせて、心を落ち着かせてくれます。何か一点に集中して行うサマタ瞑想はヴィパッサナー瞑想よりもシンプルでやりやすいです。心がたかぶって眠れないときなどにもオススメです。

ポイントはただ、出たり入ったりする息に意識を集中すること。ヨガの呼吸法のように、特別な息の仕方をしようともしません。ただ、今息が入っているなぁ、今息が出ていくなぁ、出ていく息はちょっと温かいなぁと自覚するだけです。

サマタ瞑想のやり方:

ヴィパッサナー瞑想では、体の感覚を利用して現実を観察する。

サマタ瞑想に慣れてきたら、ヴィパッサナー瞑想を教わります。これは、ものごとをありのまま観察するという瞑想法です。マインドフルネス瞑想と呼ばれる場合もあります。言葉にすると難しく感じますが、具体的に何をやっているかというと、自分の体を利用して、痛みだったり、かゆみだったり、今何を感じているのかをありのまま観察します。ボディスキャンとも呼ばれます。観察する集中力が切れて、あれこれ考え始めてしまったら、先に習ったサマタ瞑想に戻り、心が落ち着いてきたら再びヴィパッサナー瞑想を行います。

指導するS.N.ゴエンカ氏は、「何もしてはいけません」といいます。

ヴィパッサナー瞑想では、今感じている痛みを取り除こうとしたり、何かに変えようとしたり、押さえ込もうとしたり、そこから逃げようともしません。その姿勢は、「今こう感じているんだな」と、完全に受け身です。私たちには、何か目的があって、それに向かって現実をコントロールするために何かをするという習慣がありますが、それとはまったく意識の方向性を逆にするものです。

やっていることは、ものすごくシンプルなのです。ある意味、これといってやっていることが無さすぎることが難しい。私たちが社会的に「こうせよ」とトレーニングされてきた意識状態とまったく反対の状態に心と体を解きほぐす過程で、「こんなことでいいの?」と抵抗や葛藤が生じるからです。

この意識状態は、仏教でいう「無願(アプラニヒタ)」の境地でもあります。このような意識の向け方で、世界中にヴィパッサナー瞑想を広めたS.N.ゴエンカ氏は、麻薬に依存するほど酷かった偏頭痛を治癒させました。

参考:病気が治らないのはナゼ? 癒しを最大化させる「無願(Apranihita)」の力について



自由のためのステップ1:なるにまかせる。

ヴィパッサナー瞑想では、痛みから自由になるための第一歩として、痛みの性質が熱なのか圧なのかを見つめ、痛みの中心を見極めます。このように完全に受け身になって痛みが働くのに任せていると、やがて痛みはずっと同じ強度を保つわけではなく、正規分布図のようにピークを迎えたのちに少しずつ弱まっていくのが感じられます。この移り変わりをただ観察しながら、ブッダは、すべては変化し移り行くものの連なりであると悟りを得ました。この悟りがあらゆる現象はいずれ消え去るという仏教の教えの基本となる概念、無常(アニッチャ)です。

参考:「充分じゃない」「もっと頑張らないと!」ヴィパッサナー瞑想で自分にダメ出し号泣 #14

チャネリングの古典的名著『バーソロミュー』とは?

この「なるにまかせる」が自由の最初のステップだというのは、『セスは語る』『神との対話』『バシャール』と並び、高次元の叡智と交信した古典的名著とされるバーソロミューでも語られることです。

バーソロミューとは、メアリーマーガレット・ムーアというアメリカ人女性がチャネリング(エネルギー体との交信)を通じて繋がった高次元の智慧のこと。偶然ですが、私が禅修行をしていたウパヤ禅センターのあるアメリカ ニュー・メキシコ州で活動していた人です。

余談ですが、ニューメキシコ州はスペイン文化、先住民文化、メキシコ文化など多様性に富み、さまざまな信仰やスピリチュアリティが共存する場所です。この多様性こそが、ジョアン・ハリファックス老師がウパヤ禅センターをこの地に開いた理由の一つでもあります。

確かに本質的なものは枠組みを超えたところにあります。投影を外すことで、表面的な見え方に囚われず、その奥に潜む共通点が感じられます。ヴィパッサナー瞑想中は、ほかの瞑想法を実践しないという注意事項もありますし、当然それぞれに違いがありますが、伝えようとしている真理には共通の普遍性が見られます。

参考ズルくても弱くても大丈夫。心の影(シャドー)を認めて、嫌な人がいない世界へ。
投影がかかりまくっていた私の体験記:マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。



バーソロミューと禅的教えの共通項。

例えば、『バーソロミュー: 大いなる叡智が語る愛と覚醒のメッセージ』では、「悟りを理解することはできないし、理解する必要もないし、それそのものを生きるしかないことを悟ること」が悟りだと語ります。ヴィパッサナー瞑想も体の感覚を使って思い込みを外し、自由になる方法を教えます。経験を重んじ、頭でわかったつもりになるな、それを体現せよというのは、禅修行にも共通することです。

例えば、永平寺を建立した13世紀の禅僧 道元は、悟りを体現するために坐禅のみならず、料理の方法、掃除、洗顔、用便後の尻の拭きかた(!)に至るまで、24時間体制ですべての所作を丁寧に生きて、在るべくようにつとめなさいと指導されました。つまり頭で考えるよりも、自分を忘れるほど、全身全霊で勤めよということです。

道元の書いた『正法眼蔵』の初めにもこのような有名な言葉があります。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(「現成公案」)

ー仏道(真実の道)を学ぶというのは、自己を習い知ることである。自己を習い知るとは、自己を完全に忘れ去ることである。自己を忘れ去るとは、自己が空(から)になって、空になった自己が万法によって保証されることだ。万法に保証されるというのは、自己の身心も、他己の身心も脱落(とつらく)せしめ、空になって、それが法によって保持されることである。ー水野弥穂子校注『正法眼蔵』(岩波文庫)より

自由のためのステップ2:ラベリングし、ただじっと感じる。

バーソロミューでは、恐れを感じたら「こわい」と言わず、「恐れが存在している」と言いなさいと助言します。これはラベリングという手法のひとつで、「こわい」や「痛い」ではなく、「恐れ」や「痛み」という単語に置き換えることで、自分と同一視しないのです。すると自分は「恐れ」や「痛み」を観察する存在になり、「こわい」と思っている自分を認めて愛し、なにがあっても大丈夫という自分の存在の中心に戻ることができます。

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バーソロミューではさらに、そのときに、自分のハートセンター(心臓付近にある愛のエネルギーの発生源)に意識を深く集中して、と言います。あらん限りの意思をこめて、意識を集中し、じっとします。ただじっとします。なにかをしようとか、無理にポジティブになろうとか、怖さや痛みを変えようとせず、ただしっかりそれらを見つめようと固く決心すると、パワーが増していきます。別物にならなくてもいいからです。責任ある開き直りです。

願望実現などでお願いごとをするにも、このプロセスをしっかり経る必要があります。目の前の現状とは関係なく、自分には力があると実感できるからです。たとえ嫌な気分でも自分という存在は自由なのだと実感できれば、それは最強な状態です。その結果、願わずとして嫌な気分がニュートラルになり、穏やかになれるのです。

参考:現実創造の5ステップのカギ、豊かさを受け取るための「許容」を具体的に説明します

「完全に今に在る」という在り方は、もはや「今とは違う何かのためにこうなろう」としていないこと。つまり本当の私を深く味わっている状態だからです。「この状態はダメだ」「これでなんとかしよう」と思っていないときに、逆説的ですが、私たちはものごとの摂理と調和し、純粋な現れとなり、本来の力を取り戻すのです。

だから、痛みや恐れ、不安があっても大丈夫。「あ!もっと自由にラクになれる余地があるってことだな」と捉えればいいのです。ないものとして無視したり、抵抗したりせず、まずその存在を認めることから、自由を選択することができます。