悟りとは、ものごとの真の意味を知ること。仏教やヒンドゥー教では涅槃ともいわれ、迷いの世界から自由になって真理を得ることとされます。スピリチュアルにおける覚醒もゆるやかに同義で、スピリット(魂)の直接体験を通して真理に目覚めることです。具体的にどんな状態なのでしょう。また普段の生活でも悟りは開けるものなのでしょうか。
目次
悟りとは? 悟りで得る真理とはなにか?
悟りとは、またそこでの真理とはなにかとは、さまざまな宗教や思想で説かれています。
ヴェーダーンダ学派では、対極世界からの解放。
ヒンドゥー教ヴェーダーンダ学派において、悟りとは「対極の両方からの解放」です。
私たちは世界を「男女」、「あなたと私」、「良いものと悪いもの」、「快楽と苦痛」、「望んでいることと恐れていること」、「魅力的なことと憎むべきこと」などの対立する極に分けて認識しています。
つまり悟りとは、その分けられた世界観から解放された状態ということ。区別性という価値判断を超えて、世界を開かれて空っぽで広がりある純粋な感覚そのものとして捉えること。それが真理であるとされています。
仏教の中核的思想「空(くう)」。
空っぽといえば、仏教では「空(くう)」という中心的な考えがあります。さらに真理に暗いことを無明(むみょう)といいますが、人生のあらゆる苦しみはすべてこの無明(無知)から始まるとブッダは説いています。
無明を解決するための真理を説くとされ、仏教で一番有名なお経が『般若心経』です。般若(はんにゃ)とは、すべての道理を明らかに見抜く深い智慧という意味です。
このお経では、「この世のあらゆるものは、絶え間なく変化し続ける」「あらゆる存在には実体がない(すべて関係性で成り立っている)」と説きます。これが空です。
この文章は、動画として観ることもできます。
私とあなた、心と体が一体化された非二元の世界。
たとえば私のジェンダーは女性ですが、その先をたどると父という男性からもできています。原稿を書くときは編集者やライターであり、セッションを行うときはカウンセラーで、親の前では娘です。生物学的には人間ですが、先ほどいただいたキュウリや焼き魚からもなっています。というような考えをここに綴らせていただき、それを読んでくださるあなたの意識のどこかにそれが作用したとすれば、気づきはバトンタッチされます。
やがて私が亡くなれば、遺体が燃やされて二酸化炭素になり、灰はカリウムやカルシウムとなり、やがてキュウリや魚の一部になるのかもしれません。そして誰かの口に入るのかもしれません。
禅僧のティク・ナット・ハン師はその縁起のつながりをインタービーイング(interbeing 相互共存)と呼び、「あなたはあなた以外のすべてからなっている」と美しく説明しています。
このように生と死も、あなたと私も関係性のひとつの表れ。つながりが先にあって、その関係性によって私やあなたという存在が定まります。
『般若心経』で説かれる空の真理とは、個人としての絶対不変な私は疑いもなく存在しているようで存在せず、つながりによって変化し続けているということ。
それを絶対的で永遠不変の存在としてすべてから切り離して捉えるから、苦しみが生まれるのだといいます。そして非二元の意識状態で、とらわれや偏りのない、広く深く大きな心で世界をとらえることを、禅では大心と呼びます。
世界を包み込んでいくことは、発達心理学の過程でもある。
この区別性を超えるというのは、発達心理学でも語られるところです。そこで発達とは自己中心性の減少であり、世界を包み込んでいくこと。「心の理論」とも呼ばれますが、4歳ごろになると自分とは違う相手の気持ちが存在することを理解し、相手の考えと自分の考えという二つの世界を取り入れていきます。
スピリチュアルでは、ワンネスという世界。
悟りの状態をスピリチュアルでは、ワンネス(Oneness)という言葉で表したりもします。それは「すべては一つ」と、ものごとを分離ではなく統合させて捉える意識状態を指します。
悟りの具体的な体験とは、どんなものか?
ここまでは「悟り」の状態について、概念的に説明しました。では、体感として、悟りとはどのような感じなのでしょうか。
チベット仏教の行者チョギャム・トゥルンパは、悟りが実際にどう感じられるかと尋ねられたとき、「空一面が青いパンケーキのようになって頭上に落ちてくる」ような体験だと答えました(『Journey Without Goal: The Tantric Wisdom of the Buddha 』より)。
楽しい表現だし、なんだか美味しそうですね。
私は悟れぬ迷える人ではありますが、エネルギーワーク中に一度だけ偶然「なんじゃ、コレ?!」という不思議な体験をしたことがあります。完全に他力で至った体験で、あとにも先にも一度きり。
ひょんないきさつでペルー人クアンデロ(男性祈祷師)であるエミリオのエネルギーワークを受け続けることになって偶然に至った、ものの2、3分の体験だと思います。
参考:プルシャとプラクリティ
それは、まったく区別性がない世界でした。
どんな言葉で説明してもそれを正しく言い表せないのですが…。おそらく悟れていない私の意識状態では体験を理解しきれていないんだと思います。
そこでは時間の感覚もないし(長いとか短いとかもありません)、スピリチュアル世界でいう愛とか喜びという楽しくてステキな感覚でもない。どこにいるのかもわからないし、自分がなんなのかもちょっとわからなくて、怖いぐらいなんにもないゾーンなんです。
となると「そんなもん体験したくないわ」となると思います。でも完全に重荷から解放されたまったくの静けさの世界でもあるんです。安心という言葉を超えるぐらいの大丈夫感がある。なんにもないんだけど、圧倒的に在るというか。世界全体が自分というか、でも自分はないというか。全然言葉になっていないですね。このように思い出して言語化しようと書くほどに、どんどん実際の体験と離れていくようでもあって歯がゆいのですが。
でもこっちが真実なんだなと直感的に感じました。
参考:あなたに最適な男性性エネルギーと女性性エネルギーのバランスを調整する方法
覚者と呼ばれる人たちは、そのゾーンに入ったり入らなかったりを自力で意識しながら選べるんだと思います。
普段の生活で悟りは開けるもの?
悟れない私の場合は、その後何時間も坐禅したり、奉仕したりしても、あれと同じ状態にあることは無理でした。
「だったらなんでそんな体験をしたんだろう?」「なんの意味があったんだろう?」とも思いました。意味を見出そうともがくほど、逆方向に行っているんだろうなと分かっていながら…。
その後に禅センターで暮らしました。そして書道家で仏教学者の棚橋一晃(Kaz)さんのご自宅に居候させていただくこととなり、彼の自伝を翻訳させていただいたんです。
Kazさんの本を訳していると、彼が芸術家として「なにが美しいのか」という美意識を手放し、すべての囚われから解放されて深い霊性に身を委ねていく逸話がありました。
そこで彼は、筆を取っているのか筆に取られているのか、自分なのか何かなのかもわからない、自分自我を捨てて対象に入り込んでいくという創造の境地に在ります。
五感で美しいものと一体化する感性は、悟り。
Kazさんのお話に加えて、のちに資生堂名誉会長である福原義春さんの『美-「見えないものをみる」ということ 』を拝読し、ひとつに悟りとは美しいものに身を浸すことにもあるのではないかと思いました。
というのも主体(見るもの)と客体(見られるもの)の境界を溶かし、美しいものに心を開いて、「美しいと思う自分」が薄れゆくようなときとは、スピリットの直接体験をしています。深く全身的に音楽の世界に没頭するときなどもそうでしょう。
「目に見えるか」「目に見えないか」、「物体として存在するか」「存在しないか」という境界を、美の感性においてはおのずと超えられます。
フランク・ロイド・ライトがデザインした、目に見えない空間美。
私の好きな建築家にフランク・ロイド・ライトという人がいます。旧帝国ホテルの中央玄関をデザインした人で、私が一番好きな建物は滝の上に建つ「落水荘」です。ここでは話が逸れてしまうので省きますが、彼の人生は大変ドラマティックです。
ライトは岡倉天心の『茶の本 』を読んで、建築とは、壁や天井、床という造形を指すのではなく、空間が持つ雰囲気なんだとハッとさせられたといいます。その後、彼は、目に見えないけれどそこに確かにある空気を感じることに設計の本質があるとしました(『和楽』2013年10月号、安藤忠雄さんと千玄室さんの対談より)。
つまり彼は、二元性(客体と主体)を超えるものと自分が一体となった状態(主体)を建築という客体に表したといえます。これもひとつ、悟りの状態です。
私は会社を辞めて学生に戻り、その後スピリチュアルセンターや禅センターを渡り歩きました。そこで芸術を愛でるという自分の一面を封じたところがあります。ナバホ族の集落では本当の生活の厳しさに触れたし、質素倹約を重んじる修行の身には、美しいものを美しいと感じる感性をよくないことだと勝手に禁じてしまっていたんです。
でもそんなことは仏教でも霊的世界でも一切説いていません。私の心が間違って解釈したんです。
教えはいつも真・善・美に心を開いて、瞬間的に生じた体験に初心で出会う大切さを説き続けていました。それに気づかせてくれるために、仏教学者であり芸術家であり平和活動家であるKazさんと出会えたのかもしれません。
参考:前世療法とは? 自分の前世を知って問題から自由になり、今の人生を大切に生きる方法
大いなる全体のすべては瞬間の連続である。
Kazさんが英訳されたことで欧米に伝えられた13世紀の禅僧 道元の教え。道元は、永平寺を開いたお坊さんです。彼は、大いなる全体のすべては瞬間の連続に過ぎない。そして、それがすべてだといいます。
そしてKazさんが幼少期から手習した合気道の創始者である植芝盛平先生。彼は85歳でこの世界を去る前に、自分の死に装束には白帯を締めるようにと指示されたそうです。白は初心者を示す帯です。
初心で人生と出会うとすべてが悟りとなる。
初心とは、英語ではビギナーズ・マインドと訳されますが、先に根づいた考えや解釈、決めつけを持たずに人生と出会う心を持つことです。
そのように五感を研ぎ澄ませて、赤ちゃんのような心で美しいものに触れるとき、私たちはおのずと悟りを直接体験しているのではないかと思います。