心理学者のカール・ユングは、私たちの無意識には個人レベルのものだけではなく、あなたと私が共有する全人類共通の心である集合的無意識と呼ばれる領域があるといいました。自分自身を優しく思いやるという「セルフ・コンパッション」で広がる愛は、ハイヤーセルフ(高次の意識状態)の眼差しであなた自身を見るということ。集合的無意識にも影響し、骨の髄よりも深い部分であなただけではなく周りの人のことも癒していきます。
目次
集合的無意識とは?
ユングは、私たちの意識に上らない無意識には、個人的なものだけでなく、その人個人の体験を超えた「集合的無意識」と呼ばれる領域があるといいました。無意識には、個人的無意識よりさらに深い層があって、そこにある思いや考えは、生まれた時から備わっている全人類共通の心の要素として他の人たちと共有していると考えたのです。
参考:辛いのは無意識の選択のせい?自分を超えた大意識との繋がり方
この集合的無意識の存在をサポートするような、今から約2500年前に発生したある出来事があります。インターネットで情報共有などできなかった枢軸時代に、世界の各所で同時発生的に精神革命が起こったのです。仏教、ユダヤ教、キリスト教やイスラム教に強い影響を与えた教え、孔子の思想などがときを同じくして生まれました。
そこで、人々は「人間はいかに生きるべきか」と考えるようになりました。人生の価値を模索したのです。
そして偶然にもこれらの教義に共通する教えは、慈愛(Compassion)でした。つまり私たちがこの世界に生まれてきた目的は、深い思いやりを持つことだと示したのです。
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わたしはアメリカのウパヤ禅センターというところでしばらく生活しながら仏教修行をしていたことがあります。
ほどなく禅センターを卒業するというとき、僧院長のハリファックス老師が「老婆心(Grandmother’s Heart)をもってね」とアドバイスしてくださいました。
「老婆心をもつ人は人生を個人的に捉え過ぎません。といっても、それは“傍観者”の態度ではなく、“見守る人”の姿勢です。慈愛にあふれ、平常心をもって、見返りを期待せずにできる限りのものを与えられる人です」とおっしゃいました。
そこで「精進します!」と言ったわたしに、老師は「そんな慈愛を人に贈ろうと力む前に、まずは自分に贈ってね」と微笑んで、二人きりの禅堂で抱きしめてくださいました。
自分への思いやり「セルフ・コンパッション」は、ハイヤーセルフの視点であなたを見つめること。
この自分への慈愛、つまり自分への思いやりとは、英語で「セルフ・コンパッション」とも言われます。
セルフ・コンパッションの姿勢では、自分がうまくいっているときは祝福して素直に喜びます。苦しいときは、自分に優しくして寛大な心で接します。
それはあなた以上に自分のことを知り、理解し、誰よりも尊重して、大切に思って愛しているという高次の意識状態にあるあなた、ハイヤーセルフの視点で自分を見つめるということ。
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うまくいかないとき、つらいときは自分を責めてしまい、自分に思いやりを傾けるというのはなかなか難しいことです。わたし自身もそうです。
しかし、そんなときこそ「わたしは当時のわたしのベストを尽くした」と労うことで、優しく支えてくれる深い声となります。やがて人生で起きていることの意味や自分という存在の美しさに気づかせてくれるんです。
そこで困難な状況を乗り越えていこうとするときには、セルフ・コンパッションがとくに大切です。
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文化や時代、先祖代々による無意識の縛りという存在。
ユングのいう集合的無意識とは、全人類が共有する生まれつき備わっている無意識層のことです。文化や経験の違いとは無関係で、全人類共通の心の層です。
それに加えて、生まれた後にわたしたちが身につける個人的な無意識の縛りもあります。個人的な体験や思い出によって積み重ねられた無意識層です。たとえば子どもの頃から世間にはいろんな普通や当たり前が存在して、自分の実感を基準にすると「おかしい」とか「わがまま言わないの」と責められてしまうこともありますよね。
そこで周囲と適合するために、私たちは誰もがペルソナという社会的な仮面をかぶっています。それは別に悪いものではありません。社会で生きるうえで、人には誰しも第一の人格、第二の人格があります。ペルソナを受け容れて暮らしています。
しかし「今自分はこの社会的役割をしている(当人も認めている仮面)」という自覚なく、さらには無意識レベルでできない役割を無理に自分に強いて、意識と無意識のバランスが崩れたとき。生きづらさや苦しさ、心の病が発病します。限界に達したストレスが、胃が痛くなったり、眠れなくなったり、下痢や便秘をしたり、体の不調という形で現れる場合もあります。
個人的な無意識の縛りがどこから生まれるのかといえば、ひとつに文化によるものもあるでしょう。
例えば中東アフリカには「いいことがありますように!」の気持ちを込めて、相手の手に唾をかける習慣がある地域があるそうです。つばには、悪いものから身を守る「魔除け」としての意味を持つとか。とはいえ日本でつばをかけて挨拶されたら「けしからん!」となりますよね。つまり普通や当たり前というのは、場所が違えば異なる可能性があるんです。
また、世代や時代で あるべき姿も変わります。
例えばわたしの父が子どもの頃は、アイスクリームが高級品でなかなか食べられなかったそうです。いまはコンビニでいろんな種類のものが揃いますよね。となるとアイスクリームの価値や観念が父とわたしでは生まれた時代が違うだけで異なるということです。これはささいなことですが、つまりはお互いの倫理観、道徳観、社会的規範なども微妙に違っているわけですね。
そして自分の無意識の行動パターンには、家族で代々繰り返されてきたものもあります。それは何世代にもわたる根の深い問題であって、あなたの親やあなた一人の責任だけではない場合があります。
これらの縛りは頭で考えるだけで外れるものではないので、ボディワークや瞑想、エネルギーワークなどを併用させて心と体の両方でアプローチするといいです。
参考:辛いのは無意識の選択のせい?自分を超えた大意識との繋がり方
そこで悲観的な言い方をすれば、私たちは檻のない牢獄にいるようなもので、「こうするべき」という基準は決定的に見えて、実は意外にぼんやりしているものなんです。
しかし実は柵がなくて自由に出ていくことができると気づくと、私たちはうろたえるんです。
セルフ・コンパッションは、わがままではない。
たとえば、セルフ・コンパッション、つまり外側の縛りではなく、自分の内側の感覚を尊重すること。そんなふうに自分を優先したら、他の人から嫌われてしまうのではないか。そのうち悪いことが起こるに違いない。わたしなんて苦しんで当然だ。そんなふうに、自分を大事にすることに罪悪感を抱いたり、不安に感じられたりするかもしれません。
わたしもずっとそうでした。でも、自分に思いやりを傾けることはわがままとはちょっと違うんですね。ここでいうわがままとは、「他人や周囲などの都合や事情を考えずに、自分勝手に振舞ったり発言したりすること」という意味です。
セルフ・コンパッション的な在り方とは、自分を十分に大事にすることで、無理なく自然とわたしと同じように他の人もその人らしい人生を生きる資格があると認められるようになること。「べき」や「ねば」という義務感や責任感からではなく、お互いの幸せを追求した先にある世界です。
そして、どれほど立派な人でも、みんな苦しい経験をしているとつながりを感じられること。また、わたしは苦しんでもいい。辛いときは誰かからの愛情と支えが必要だ、と自分を許して周りの人たちの愛情に心を開けるようになること。
わたしたちは、完璧でなくても愛される。
勇気(courage)という英語の語源であるラテン語は、本当のことを話すという意味の言葉です。
語源から、完璧になんでも一人でできる人よりも、良いも悪いも含めて自己開示できる人が勇気のある人、パワーのある人だと思われてきたことがわかります。
本当の自分を見せると無防備で傷つきやすい状態になります。「Vulnerability(傷つきやすい状態。無防備さ)」であることは、深い人間関係を築くために必要なことだとも『本当の勇気は「弱さ」を認めること』の社会学者ブレネー・ブラウンはいいます。
自分の弱さをさらけ出したり傷ついたりすることを、必要以上に恐れる必要はないんですね。
進んで傷つきやすくいるとき、弁解する必要も、人との間に距離を置く必要もありません。ありのままの自分を受け容れています。するととてもパワフルな状態になるんです。
昭和を代表する政治家の田中角栄さんは、人の懐に入ることが上手かったそうです。彼が大蔵大臣だったときのエピソードで、大蔵省の官僚にこう言ったそうです。
「俺は大学を出てない。君は東大出か?君は私よりはるかに優秀だ。私の大臣室のドアはいつも開いているから、いつでも入って議論してくれ。おおいに意見を聞きたい。ただし、最後の決定は私にさせてくれ」(『世界で突き抜ける』より)。
学歴のない身でエリート集団のトップになったわけですが、あえて弱みを見せることで相手の心をつかんだんですね。みんなその瞬間に彼のファンになってしまったそうです。
失敗することは怖いですし、良い結果を望む自分の気持ちもわかる。それも素晴らしいことです。でも全部ひとりで出来なくたっていいんです。
自分に出来ないことがあるおかげで、周りのひとの優しさに気づけますし、感謝することもできます。他の人の力をプラスに活かす機会を与えることもできるんですね。
私たちは完璧じゃなくても愛すべき存在でいられるのです。
自分への無条件の愛は、周りも同時に癒す。
自分に思いやりを傾けて、本当に自分を愛する気持ちに立つと、しだいに心の中にあった矛盾が解消され、痛みが癒やされていきます。矛盾というのは、「ありのままの自分で愛されたい」という気持ちと「ありのままの自分では愛されない」という気持ちの対立です。
セルフ・コンパッションでその対立が薄れていくと、心の穏やかさとしなやかな回復力が土台になって、あなたの心の癒しは水に投げられた石が放つ波紋のように周囲に広がっていきます。
それは自分、一番身近な人、親しい人、知り合い、あまり知らない人、相入れない人と、次第に近いところから遠いところへと波及していくでしょう。なぜなら私たちは集合的無意識でつながりあっているからです。
変容のタイミングは、それぞれの人が設定する魂の青写真によるところもあり、早かったり遅かったりと、それがいつだとは私たちにはわかりません。準備ができたときに変容が起こるというのがスピリチュアルな法則です。
さらに私たちの心の深い部分は、ゴールに達することよりもむしろ、そこへのプロセスを味わうことを求めているのではないでしょうか。
参考:バシャールが語る、望みをブロックする観念とはなにか? 苦しみをさそう観念の外し方について
その期待を手放し(これも完璧主義を手放すということにつながります)、無条件の受容と思いやりの元を自分に育むことができれば、最高の理解者という自分(ハイヤーセルフのあなた)がいつでもあなたに無条件の愛を送ってくれると深く実感できるようになります。
参考:自由と多様性の風の時代を生きる、ハイヤーセルフとつながるために必要な6つのこと。