私たちは大なり小なり人と関わり合いながら生きています。けれども、どうしようもなくひとりぼっちのように感じたり、さびしくなったりすることがありますよね。そこで、私がアメリカの禅センターで暮らしているときに教わった、孤独感、さびしい気持ちとの向き合い方についてお話ししたいと思います。
目次
孤独感、さびしい気持ちとの向き合い方。
私はアメリカの禅センターで初めに4か月間。その後、帰国する直前の1か月間と、合計5か月ほど暮らしていました。
禅センターって?
禅センターというのは、禅寺での坐禅や礼拝などと、作務などの労働を通じて禅の生活を行う施設のこと。アメリカではお寺というと宗教色が強く感じられるせいかな?センターという呼び名がなじみ深いようでした。修行もプラクティス(実践)と呼びます。
私が生活したセンターでは、男性も女性も一緒に共同生活します。ボランティアしたタサハラもそうでした。面白いですよね。
そこで、男女交際は禁止(私が暮らしていたときは最初の4か月は禁止。元から付き合っていた相手でもNG。その後、老師の許可が得られれば、コミュニティとの生活に支障が出ない程度なら許可される)。
とはいえ、老若男女が一緒に長時間働いたり生活したりするわけですから、化学反応は起きるわけです。
ベンとミョウシンは、お互いに手当てし、いたわり合っています。スキンシップの薄い文化からやってきた私としては、それがどこかいちゃついているようにも見えます。
ジュリアナとタイラー夫婦は、お互いに仲良く庭でランチを食べています。
マリとルネは、男女というよりも子どものじゃれ合いですが、ユーモアたっぷりのやりとりでいつも仲良し。
「あれぇ、コミュニティ生活っていうけど。やっぱり愛情ってどこにいても、フラットってわけじゃないんだな…」
そんな姿を見ていると、私は男女交際はおろか、友だちもできない。
無価値観がおそってきます。
誰にも求められない、愛されないわたし。
フラッシュバックするのは、子どものときに、花いちもんめで「アヤちゃんが欲しい」となかなか言ってもらえなかったときの、あの感覚。
言ってもらえなくてさびしいんだけど、和を乱さないようにか、プライドを保つためにか。おそらくその両方で、ニコニコ愛想笑いを浮かべているというあの感じ。
禅センターにくる前に別れたというのもあり、到着して1週間がたった頃、ものすごくさびしくなったんですね。
となると、あとは雪崩みたいに「私はダメだ」の悪魔のささやきが心を襲います。
外側には見えません。でも心は、ダークサイドに向かっているんですね。
私は、気の利いたことがいえなくて、アメリカのジョークもツボがわからない。
ユーモアが重んじられるこの国で、致命的なほど面白くない。
それどころかなに言っているかすらよくわからないと、何回も聞き返されてしまう…。
といったように。
場所は、異国アメリカのニューメキシコ州サンタ・フェ。
和風の作務衣に身を包む目鼻立ちがくっきりした西洋人たちが、アルファベット発音の般若心経を唱えるという異空間。
そこで、どこまでも暗いひとりきりの沼にハマったような、深い井戸の底に沈み込んでしまったような気分になったんですね。
参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。
雑草を抜きながら、元恋人を思い出す。
その日の作務では、禅センターに生い茂った雑草を抜いていました。
夢中で雑草を抜いていると、心にはびこる鎖のようなものも一緒に取り去るようで。ちょっとすっきりして、気分が浮上してきました。
本当、作業に集中して無心になるって、ときに驚くほどのヒーリング効果があるんですね。まさにマインドフルネス効果です。
ところが、手に触れる草の感触と、抜くときの重みから、数ヶ月前に暮らしたエサレン研究所のことを思い出したんです。
ちなみにこのように体の感覚を通じて、抑圧していた記憶や思いが浮上させるという手法も、ローゼンメソッドなどの心理療法で用いられます。
で、エサレンでは、午後に草むしりしていると必ず、ウィルが“ワッ!”といって脅かしてきたなぁ。
ウィルとは禅センターにくる前に別れたから、もうそんなこともないんだな…と、またさびしくなってしまいました。
もう自分のことを気にかけてくれる存在なんて、一生現れないよな。
私、面白くないし。キレイでもないし。若くもないし。
と、どよーーんと負のスパイラルが…(苦笑)。
そんな思いを払拭すべく、炎天下、一人また一人と仲間が挫折するなか、気づけばひたすら雑草を抜きつづけていました。
その結果、草むらは、雑草がほとんどなくなり、すっきり!
しかし目が向かうのは、抜かれて所在なく、ゴミ箱に捨てられるのをただ待つという物寂しい雑草のほう…。
それが誰にも求められずに根なし草生活を送る我が身と重なり、ふたたびうら寂しくなってしまったのデス…。
そういえば、私の2週間前から禅センターで暮らしていたマリィは、「今で3週間だけど、とてもセンシティブになった」と言っていたな。
これがそうなのかな。
なんて、当時の私は、冷静に自分のことを観察できるはずもなく。
先が見えない底なしの、ぼっち気分の沼にズブズブとはまり込んでいました。仕方ありません。さらには、それに抵抗しようとも心はもがいていて苦しい。顔は笑っていたけど、実に重たく、しんどい感じでした。
あるレジデントの告白。
ある日の昼食の時間のことです。
禅センターの食堂には、外のテラスや部屋の中にたくさん木でできた机があります。接心のとき以外は、席は決まっておらず、みんな自由に席を選んで着席します。
しばらく無言で食べて、鐘がなると会話をしてもいいことになっています。
その日、私の向かいの席に「いいかしら」と座ったのは、70歳近い白人女性でした。
穏やかな笑顔が魅力的で、いつもとても丁寧に作務をおこなうレジデントの先輩でした。
すると彼女がおもむろに、父親を肺がんで亡くしたこと。その一年後には、息子を自殺で亡くしたこと。その後は、3年間ずっと泣きどおしだったことを話してくれました。
本当に一日中泣いていたの。その3年は、泣くことしかやっていなかったぐらい。
そのときにね、思ったのよ。深く悲しんでもいいって。さびしくてもいいって。
人生には喜びがあり、深い悲しみや痛みもあり、それは陰陽のようなものだと。
娘が出産した2歳半の孫は、亡くなった息子にとても似ているの。
私が今ここで暮らした後に、チャプレン(教会外の施設で働く聖職者)になろうとしているのも、息子の死がきっかけだと思うの。
深い悲しみや孤独感を感じることを許したことで、より人生から幸せを感じられるようになったのね。
彼女はそう話し終えると、「どうしてこんなことを会ったばかりのあなたに話したんでしょう」とちょっと驚いて、ふっと照れ臭そうに笑いました。
心を開けば、すべての人が師になる。
私は思うんです。
心を開いた状態って、感じやすくて敏感な状態です。英語でVulnerabilityといいますが、もろくて傷つきやすい、無防備な状態になるんですね。
でもそんなときは、感受性がオープンにもなっています。そこで、相手がいつどんな人でも、たとえその人が巧妙な占い師などでなくても、自分にとって必要なメッセージを目の前の人が届けてくれるんですね。
受け取るセンサーが立っているからです。
彼女が当時の私に教えてくれたことは、
悲しみやさびしい思いは悪くて、喜びや満たされた思いは良い。
孤独に苦しむ自分は悪くて、たくさんの人に愛される自分は良い。
そういうことではない、ということですね。
その後、実体験から深くそれを腑に落とすことになりましたが、確かに心の解放は、そういった条件付きの愛では起こりません。
どんなときの自分も信頼すること、愛すること。そうやって肩の力が抜けたとき、エネルギーが切り替わって、自ずとそれと共鳴する現実が展開していきます。
もしも悲しみやさびしさという感情が必要なかったとしたら、進化の過程で、私たちは植物のようになって、感情を持たないようになっていたでしょう。
しかし、そうならなかった。
というのも、そのような「感じてはいけない」とする不快な感情も、私たちが種として残って進化するために、愛やつながりを求める心の基盤として助けになったのです。悲しかったり、さびしかったり、それで苦しい、痛いと思う心も必要だったのです。
悟りというと、悲しみも痛みも超越した存在になるような感じがします。
でも、今ここに完全にあるとき、喜びはもちろんのこと、深い悲しみとも一体化します。
そしてそれはまた、永遠につづくものではありません。
移り変わるものです。
その切り替わりのタイミングは、私たちの魂は知っているけど、頭ですべて理解することはできません。
実感はできなくても、私たちは瞬間に生きて、瞬間に死んで、生死を繰り返しています。
私たちの体を形づくる細胞たちのように。
そして体を入っては出ていく呼吸のように。
禅センターにいると、確かにマリィがいうようにセンシティブになっていたと思います。
振り返れば、山を降りたあと、帰国してからもしばらくは、そのような状態だったと思います。
感じやすい状態であることは、苦しいこともありました。
でも、それによって、必要なタイミングで必要な癒しがやってくるのだ。そう、腑に落ちていきました。
このような癒しは、「これをこうやったら、こうなる」というハウツーじゃなくて…。
ただ黙々と目の前ことをやりながら、そこで現れた自分の心と向き合ううちに、そうなっていくんですね。
そこで、「自分は大丈夫なんだ」「これは未知の体験だけど、私にとって必要なことが起きているんだ」。そう信頼することがエネルギー転換のスイッチになります。
心の奥の痛みを打ち明けてくれた彼女は、その2週間後に、「ここでやるべきことは終えた」と禅センターを去りました。
さらにとても不思議なことに、彼女が使っていた部屋を、私が使わせてもらうことになったのです。
インドの聖者、パラマハンサ・ヨガナンダが言いました。
最良の友とめぐりあうことは、自己変容の近道である。
最良の友とめぐりあうには、自分にその準備を整える必要がある。
その準備とは「浄化」と「瞑想」である。
浄化と瞑想を励むことによって、心が洗われる。
すると、それに最もふさわしい人が引き寄せられてくるのである。
なぜなら、出会いは自分の放出するエネルギーが関係しているからである。
浄化や瞑想というと、敷居が高い、難しくて特別なことのように思えます。それこそヨガナンダのような聖者のみができることだと。
でも思うんです。おそらく私たちは、ただ生きているだけで浄化されています。
世間的に見ると情けないこともあるかもしれないけど、それでダメってことじゃない。
そもそも私たちは物理現象として肯定されているから、今ここで、あなたや私という一つの現れとして存在しています。
そうでなければ、存在していません。
孤独な気持ちも罪悪感も苦しさも否定する必要はありません。
消すべきものでもありません。
ただ、今それを感じている自分を信じてあげる。
リラックスして、今という瞬間を大切に過ごせば、そのときのあなたにとって最良の友が必ず現れます。
それは人物かもしれないし、本やネット上の言葉や、ドラマのセリフや音楽のフレーズかもしれない。あるいは、足元の小さな蟻かもしれません。
そのときのあなたにとって最良の状態で必ず現れます。
参考:ワンネスとは? つらい気持ちを穏やかに、喜びに変える方法。