願望を叶えるためには、願いを放ったあとは期待を手放せといわれます。すると、「叶っていない」現実に対する焦りや不安を解き放てる。その結果、願いが達成されている心の状態(波動)と一致し、その状態の現実が現れるといいます。でも具体的には?私がアメリカの禅センターで体験した、身近だけど少しだけ不思議なお話をしたいと思います。
願望が叶うために必要なステップ、期待を手放すとはどういうこと?
一般的には、なにかをするとき、その先にあるものを期待しますよね。
それを目的とか意図とか、目標とかといいます。
たとえば、勉強をするのは、成績とか合格とか資格とか。その先に想定される、将来の安定やスキルを得るという目的がありますね。
ただ純粋に学ぶことが好きだという人もいると思いますが、多くの場合は、なにか達成されたい目標やゴールがあるのではないでしょうか。
また、人間関係でも大なり小なり誰かに尽くすのは、愛情だったり信頼関係だったり。その人が喜ぶ顔や、それによって自分が満たされるなど、心のつながりを求めて行動します。
仕事の場合は、信用や昇進、お金などの見返りを得るためというのがあるでしょう。
私は、アメリカで心理学を学んだ後に、しばらく禅センターで暮らしていました。禅センターへいったのは、心を軽くしたかったからです。
具体的には、自分の抱えている問いの答え、つまり、自分の喜びと他人の幸せが交差する場所は果たして本当にあるのだろうか。
参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。
それを体験から腑に落としたかったからです。だいぶん、頭でっかちになっていたんですね。
そこで、無償で奉仕しつづければ、どこかのタイミングでそれがつかめるんじゃないか。しかも自分が尊敬する人たちがいる安全なコミュニティだったら、そのエネルギーに引っ張られて、自分を高められるんじゃないだろうか。
そんなふうに思ったんですね。
大きな期待感があったんです。
そしてそれはものすごく、「私が思うような形で、すぐに達成されたい」という執着だったんですね。
それに向かって、修行も無償の奉仕も精一杯がんばります、といった感じで。
だけど、いつまで経っても、私は私のまま。
怒りもあるし、悲しみもあるし、ケチだし、人間的な器は小さいし….。
表面的には、ニコニコしていろんな頼まれごとを感じよくこなしながら、心の奥にはドロドロしたものを抱えつづけているなぁと。
一流の大学で先生のもとで学んでもダメ。
研究室や研究機関で学んでもダメ。
聖者からヒーリングを受けてもダメ。
ナバホ族の聖山では死にかけて足手まといでダメ。
瞑想しつづけてもダメ。
無償の奉仕をしつづけてもダメ。
なにをやってもダメ。
いつまで経っても、私は変わらず器の小さい私のまま。
そうこうしているうちに、何も変わらないまま5年のビザがもう切れそう…。そう、焦ってもいました。
そんなある日、私は、レジデントのひとり、ウォレンの言葉で感情が爆発。号泣したんです。
それまではいつでもニコニコ。なにを頼まれても「ハイ、喜んで」と、感情の起伏もなくそつなくこなす感じのいい存在。それが私でした。
ところが24時間衣食住をともにすることで、“感じがいいメッキ”が、いよいよはがれたのです。
そしてお昼を抜いて、部屋でザメザメと泣いていました。心配したレジデントのひとり、シグルンがランチを部屋まで包んで持ってきてくれました。
プレジデントのコウザンさんも大丈夫かと尋ねてきました。
それでも頑として部屋の扉を閉めつづける私。泣き声を殺して「大丈夫です。午後の作務には戻ります」と泣きつづけます。絶対に泣き顔を見られたくなかったのです。
当時の私は、アドレスホッパーになって、成り行きまかせで生きていました。
参考:マガジンハウス社員からホームレス編集者へ。 アメリカの禅センターで体験したお金を交わさない豊かな暮らし。 交通事故、顔面マヒで入院し気づいた私のお金のブロックを解除する
そのわりに、根深いところにある自分の傾向性が出てくるのです。それは、すべてがきっちりできていないとダメだとする私の一面。
びっくりするところで抜けていたり、信じられないような大胆なことをするくせに、変に完璧主義なところもあるんですね。
たとえば坐禅の時間が始まる10分前には料理の準備と掃除を完全に終えて、みんなをちゃんと禅堂に向かわせないといけない。決まっていることは、きちんとやらないと。
そんなふうに徹底的にやらないと気が済まないところがあるんです。
他にも「あぁ、明後日から100人規模のワークショップが始まる。なのに、まだトイレットペーパーが届いていない。いったいどうしようか…」。
そんなことで頭がいつもいっぱい。
日本で一緒だった人たちだったら、「そうだよね」「そうしよう」となるんだと思うんですが、こちらではそうはいかない。
いろんな文化圏とバックグラウンドの人たちと仕事をするって、大変なんだなぁと頭を抱えてもいました。
たとえばウォレンはとても繊細なところもありながら、イージーゴーイングなところもある人。緩やかにいきたい人たちのムードをうまく捉えられなかったんですね。
最終的にとっても仲良くなったけど、最初は価値観の違いに奮闘していました。
「思いつきでクリエイティブなソースを作るのはいいけど。大量に使われたフードプロセッサーとかボウルとか。ちゃんと洗ってくださいよ」と思いながら、必死に皿を洗い続ける私。
それで心の中がプリプリ、ドロドロします。で、いつも「自分は人間的な器が小さいなぁ」「修行だから。私が至らないわけだから、もっと頑張らないとな」と思っていたのです。でも、そのときはもう我慢の糸がブッチン。
切れてしまったわけです(笑)。
その夜の坐禅で、コウザンさんに独参(どくさん)に呼ばれました。
独参というのは、お坊さんと一対一で坐りながら話す時間です。
通常は、坐禅や修行に関する質問をします。けれどもコミュニティ生活を送るうえでの、ある種カウンセリングの場のようなところもあり。そのときに自分が抱えているものを相談してもよいことになっていました。
コウザンさんに「先ほどは見苦しいところをお見せして、すみませんでした。感情が爆発してしまいました」と言いました。
コウザンさんは、頷いて微笑みました。そして、おっしゃいました。
道元は、坐ることで平和と喜びが得られるといいました。
けれども、平和と喜びを求めて坐るのではありません。
目的は、「とりあえず坐る、とにかく坐る」こと。なんの報いや効能も求めず、ただ坐る。
なにも考えずにただ坐る。
それを只管打坐(しかんたざ)といいます。
アメリカ人から、只管打坐(しかんたざ)について教わるって、よく考えると面白いですね。でも私はコウザンさんに教えてもらうまで、この言葉のことを知りませんでした。
そして、打ち明けました。
「数日後にセミナーを控えているけど、トイレットペーパーがまだ届かない。…不安だったんです」。
ただ坐る。
ただ料理する。
ただ野菜を切って、ただ掃除して、目の前のことにただ向かう。
掃除しているときは、例えばほうきになりきって、思いわずらうことなく、一心に落ち葉をはく。
私は、これまでこのようにして、ただ何かをすることがあっただろうか。
いや、確かにあった。
それは、マインドフルネスやヴィパッサナー瞑想合宿に参加したり、奉仕したとき。
「お茶をマインドフルに飲みましょう」と言われたら、ただそれをしようと向き合ってきた。
でも、この禅センターに来てから、一度でも、ただそれをすることがあっただろうか…?
私はいつだって評価や称賛を求めていたのではないだろうか。
掃除しながらほうきになりきるのではなく、掃いた後にキレイになる禅堂の前の廊下を、先の先を見ていた。
さらにいえば、その先の「ありがとう」「助かったよ」「キミは偉いね」を求めていたんじゃないだろうか。
心はほうきには無かった。
老師やコウザンさん、そして他のレジデントに「ありがとう」「助かったよ」「アヤって感じがいいね」「よく働くね」「優秀だね」「日本人って頑張り屋だね」といってもらいたかった。
いつでも必ずどこかで。
そしてその評価の結果、お墨付きをもらえたという感じで、自分が人間的に磨かれたりするのだという大きな期待を持って。
思えば、坐るときだって、安らかになりたいとか、心を清らかにしたいとか、先の何かを期待していた。
もちろん、それは悪いことではないでしょう。
でも、それらを手放せたら、どんなに自由になれるんだろう。そう思いました。
子どものときに、ただ走っているだけで楽しかったときのように。
その先にどこに行くのでもなく、何秒のタイムを出すためでもなく、ただ走りまわって面白くてしょうがなくって笑い転げていたときのように。
あんなふうになれたら、どんなに心や体が軽くなるんだろう。
評価や結果を求める心(期待)は、気づかないうちに重たい執着になって、いつも私を捕らえていました。
心が囚われることで、周りのエネルギーも感じられず、効率よくやれる代わりに、一人で全部やっているような気になって。
やがて爆発してしまったのかもしれない….。
それがこれまでの私のパターンだったのではないか。
なんでもっと早く気づかなかったんだろう…。
「いざとなったら、センターには木がいっぱいありますね。葉っぱでお尻を拭いてもらったらいいですね。ふふふ。世界の終わりみたいに思っていました」と笑ってコウザンさんに伝えました。
「そうだね。僕らは、本当に小さな世界で。トイレットペーパーがあるかどうかにキリキリしたりしてね。よくよく考えてみたら面白いね」。
そんなことがわかってからもなお、禅センターでの私は、変わらずズッコケでカッコ悪いのでした。
世界平和とか社会正義とか。山の中の禅センターで修行して、心が洗われて、霊元あらたかに、ガツーンと天啓を受けて開眼する。
そんなことはまったくなくて。
中年になっても大泣きして部屋から出てこないとか。むしろ、禅センターに来る前よりも、子どもっぽくなったような…(汗)。
でも、これこそが私という身の丈の修行であり、体験すべきことだったんだと思います。
というのも、ちょっと前まで他人だった人たちの前で、腹の底から怒りを感じたり、号泣したり、支えあったり、抱き合ったり。
自分がこれほどオープンに感情を現せるなんて。
それがどれほど恵まれていることで、すごく安心で安全な場所をみんなが作ってくれているからだともわかりました。
ある日広い禅堂で坐禅するのが、コウザンさんと、レジデントのルネと私の3人だけだったときがありました。
しばらく坐ったあとに、経行(きんひん)という、歩いて行う坐禅に変わりました。
そのタイミングでコウザンさんは禅堂を出て、ルネと私だけになりました。
経行では、呼吸するあいだに、足の甲の長さの半分だけ歩を進めます。そして次の呼吸で反対の足をまた半歩だけ進めます。
参考:5分歩くだけで不安や怒りが消える。自分の部屋でできる歩く瞑想の行い方
そうしてただ歩くうちに、なぜだか涙がポロポロ流れました。
なんの涙なのか、わかりません。その日の坐禅は、本当になんの思いもなくおこなっていたんです。
別に悲しいことも、思いわずらっていることも、ありませんでした。
ときにヒーリングはこのような感じで、問いと実践が飽和したとき、起こります。
ルネが配慮し、禅堂の光りを暗めにしてくれたのがよかったです。ぐしゃぐしゃになって泣いてしまいました。
禅堂を出た後、これまで私が良かれと思っていたことは、単なる思い込みに過ぎなかったのかもしれない。
もっと謙虚になりたい。
心からそう思いました。
人間的に成長するために「そう思わないと」と考えて思うのではなく、スッと自然な形でそう思ったんです。
その坐禅の後の、夕食の後で。
禅センターに立ち寄った、ルチアが私の食事のお皿を洗ってくれました。
いつもの悪い癖で、私は「ありがとうございます」と感謝するよりも、驚いて「自分でやります。大丈夫です!すみません。お手伝いします」と焦って立ち上がりました。
すると「アヤはいろんな人のお皿を洗い続けているんだから、あなたのお皿を洗えて光栄です」とルチアが微笑んでくれました。
あのときの笑顔は忘れられません。人って本当に美しいんだなぁと感じいりました。
喜びながらお皿を洗うルチアの姿は、とても綺麗でした。
顔の造作とかそういうのとは関係なく、まるで発光しているように見えました。
源の自分が本当の自分。
私たちは、それをすっかり忘れて、ただの人間だと思って生きている。
でも源の自分が本当の私たち。
そして、なにかを求めなくなったときに、
望んでいたことが贈られるという不思議な世界に生きています。
写真はみんなでクリスマスクッキーをつくったときのひとこま。私は、禅センターの名前のUpayaクッキーをつくってみました。
Upayaとは、サンスクリット語です。仏が衆生をさとりへと導くためのてだてとして説かれた教えのこと。対して完全な智慧はPrajnaです。Prajnaを私たちが理解できるようにしたもの(方便)がUpayaです。